忘れられぬインタビュー

2015年01月22日

大豊泰昭氏からのラストメッセージ

大豊氏一本足


1月18日、中日ドラゴンズなどで活躍した大豊泰昭氏が亡くなった。51歳という若さだった。

一昨年秋、僕は大豊氏にインタビューをした。テーマは「一本足打法について」。王貞治氏はもちろん、片平晋作氏、駒田徳広氏など、一本足打法に挑戦した方々に会って、一本足打法とは何なのか? なぜ、今ではあのようなフォームの打者はいないのか? そんなことを尋ね歩いていた。

大病を患ったことは聞いていたけれど、目の前に現れた大豊氏の痩せ細った身体に言葉を失った。現役時代の偉丈夫なイメージとはほど遠く、それはまさに病人そのものだったからだ。

それでも、大豊氏は饒舌だった。話しているうちに、身振り手振りを交え、さらに静かに立ち上がると一本足打法の極意を実演を交えて伝授してくれた。「体調はあまりよくない」と聞いていたから、内心ではハラハラしていたけれども、一度、構えに入ると見事にビシッと決まったのが、本当にカッコよかった。

波乱万丈の野球人生に加えて、ときおり交えるユーモア。歯に衣着せぬ毒舌などがバランスよくミックスされていて、お話はとても面白かった。ただ、ときおり見せる、寂しそうな発言が切なかった。

大豊氏


ハッキリとは明言しないものの、「外国人が外国で暮らすことの厳しさ」、「閉鎖的な日本野球界の弊害」をにじませる発言も、ちらほらと漏れてきた。


最新刊『プロ野球、伝説の表と裏』にも書いたけれど、彼が漏らしたこんなセリフが胸に刺さる。


「台湾からやってきた僕が世の中で認めてもらうためにはホームランしかなかった。みんなを満足させられるのはホームランだけだった。僕は14年間で277本のホームランしか打っていません。でもね、僕のホームランはその一本、一本が涙と汗と血の結晶でした。一本のホームランを打つことに必死でした」


一本足打法修得は、本当につらく厳しい道のりだったという。大豊氏は「生まれ変わったら二本足で打ちたい」とも言っていた。それでも、一本足打法のおかげでホームラン王も獲得できたことも大豊氏は重々、承知している。

長時間に及んだインタビューの後、彼はなおも話し続けてくれた。たわいもない雑談もまた絶妙な話術で時間の経つのを忘れさせてくれるほどだった。

この雑談の中で、自費出版で写真集を作ったことを聞いた。「一部、購入させて下さい」と頼むと、「お金はいいよ」と大豊さん。そんなわけにもいかないので、お支払いすると「押し売りしたみたいでゴメンね」と笑顔。

そして、大豊さんは言った。

「実はね、こんなものを書いてみたんですよ……」

そこには、きれいな字で大豊さんの「打撃理論」がまとめられていた。

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感心して読んでいると、僕にひと言、「よかったら差し上げますよ」と言った。

A4六枚、すべて直筆による力作だったために恐縮していると、「ぜひ、もらって欲しいんです」と笑顔になった。

今となっては、どうしてそんなことを言ってくれたのかわからない。原稿を書く際の参考のためだったのか、それとも、書籍化を希望していたのだろうか?

文章の最後には、こう記されている。

「さぁ……、自分の感性と慣性を磨こう。自分の能力を信じて努力する。夢は簡単に実現できないが、あきらめと中途半端だけはやめよう。厳しく、楽しく、頑張ろう」

努力の人が、静かに逝った。早すぎる死を悼んで、合掌。






shozf5 at 16:40|Permalink

2012年06月22日

男が涙を流すとき 〜岩本勉のあふれる想い〜

涙

インタビュー中に、取材相手が涙を流すことがしばしばある。

女性アイドルの取材をしているときなどは、
お世話になった恩師や両親の話題になったときに、
あるいは、不遇の時代を思い出したときに、
《彼女》たちは、瞳を潤ませたり、涙をこぼしたりした。

女子野球選手に話を聞いているときには、
ケガや不調に苦しんだ時期について、
男子との間で疎外感を覚えたときについて、
苦しかった時期の話を聞くときに涙を見た。

一方、インタビュイーが男性の場合には、
なかなか「涙」と遭遇する機会は少ない。

しかし、つい先日のインタビューで、「男の涙」を久しぶりに見た。

それが、元日本ハムのエース・岩本勉の涙だった。

以前にも書いたように、1989年の夏、当時阪南大高校の3年だった
岩本は、下級生による不祥事で大阪府予選に出場できなかった。

当時の新聞に「高校球界期待の新星」と紹介されていた岩本は、
突然、「18歳の夏」を奪われることとなった。

数年前に、「あの夏のことは今でもよう思い出すんですよ」
岩本から聞いていた僕は、改めて取材をして、
その顛末を『高校野球小僧2012春号』で書いた。

高校野球小僧 2012春号
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幸いにして、読者からの反響も大きく、
僕自身も「もっと書きたい」と思っていたこともあって、
続編を書かせてもらえることになった。

今回は、前回触れることのできなかった高校時代の恩師、
そして岩本を支え続けた両親に話を聞いて、続編を描いた。

そして、「岩本勉の失われた夏 第2章」は、22日発売の
『高校野球小僧2012夏号』に掲載されることとなった。

高校野球小僧 2012夏号
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この取材中、僕は「男の涙」を目撃することとなった。
久しぶりに酒を酌み交わしながら、岩本に話を訊いた。
このとき、岩本は涙をこぼした。

それは、「あの夏」を悔やむような悔し涙ではなく、
それまで知ることのなかった「友の想い」を知った嬉し涙だった。


あの夏の不祥事の結果、チームメイト19名は、
みな野球から離れた生活を送っていた。

同級生19名は、岩本に自分の夢を託していた。
ドラフト当日、キャプテンは大声で言った。


「岩本のドラフトは、オレらのドラフトや!」


この想いは、岩本がプロに入ってからも変わらなかった。


「岩本の活躍は、オレらの活躍や!」


「18歳の夏」を失ったことで、彼らの結束はより固まっていた。


しかし、彼らは岩本に対して「ある隠し事」をしていた。
取材で明らかになったその「隠し事」を岩本に伝えた。

その瞬間、グラスを持つ岩本の手が震え、
その瞳に、熱いものがみるみるうちにたまった。

「……ホンマですか? あいつら何をイキっとんねん。
あぁ腹立つ、彼がいちばん怒ってたんですよ、
なのに……。カッコよすぎるわ、あいつら……」


懸命に涙をこらえている岩本の姿を見ていて、
僕もまた、涙がこぼれそうになっていた。

同級生たちは岩本に何を隠し、
岩本は同級生たちの何に感激したのか……。

パブリックイメージの「明るいガンちゃん」とは違った、
気ぃ遣いで繊細な側面が、岩本にはある。
そんな一面をぜひ、知ってもらいたいという想いが僕にはある。

もし、よかったら、ぜひご一読いただけたら幸いです。








shozf5 at 10:00|Permalink

2012年03月01日

裏方への優しいまなざし――王貞治インタビュー

王監督と

先週24日に発売した『不滅 元巨人軍マネージャー回顧録』
書店に並ぶ拙著を見ていると取材時、執筆時の思い出がよみがえる。

この本の取材で、とても印象に残ったのが、
王貞治氏へのインタビューだった。

この本の主人公・菊池幸男氏は、そのキャリアを
スポーツメーカー・玉澤の巨人担当からスタートし、
やがて、その仕事ぶりが認められて、ジャイアンツ入り。
最初は用具係に、94年からは一軍マネージャーとなった人物。

菊池氏の人となりを知るために、
当時のジャイアンツ関係者に話を聞いて歩いた。

そして、菊池氏の結婚式に王さんが出席した際のエピソードが
とても印象的だったので、王さんに会い、そのときの話を聞いた。

取材の間、王さんは終始にこやかだった。

「懐かしいなぁ」とか、「話しているといろいろ思い出すね」と、
当時のことを楽しそうに振り返ってくれたのが嬉しかった。

印象的だった言葉がある。
王さんは、菊池さんをはじめとする裏方に対して、こう言った。


「世の中にはスポットライトを浴びる人間と、
 それを支える人間がいます。
 みんながそれぞれの役割を演じているわけです。
 どんな人でも必ず重要な部分を担っている。

 あの伝統あるジャイアンツ、あの時代の強いジャイアンツを
 菊池クンが支えたのは間違いないし、彼にだって
 “オレがチームを支えているんだ”っていう
 プライドが必ずあるはずでしょう」



この言葉を、菊池さんに伝えると、
彼もまた感無量の様子だったことも印象深い。


どんな人でも、それぞれの役割を演じている――。


王さんの言葉を胸に、僕は僕の役割を演じたい。
取材の最後に、王さんに言われた。

「これからもいい本をたくさん書いてね」

僕にとって、忘れられない言葉となった。


不滅 元巨人軍マネージャー回顧録
不滅 元巨人軍マネージャー回顧録
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2012年01月19日

生きていく上での指針について、「何を恥と思うか?」と、つかこうへいは言い、「何を【しない】か?」と、沢木耕太郎は言った。

年明け早々、刺激的なインタビューが続いていた。
正月気分の抜けきらぬ6日には、
ノンフィクションの巨人・沢木耕太郎氏のインタビュー

学生時代から、氏の著作を愛読していたので、
期待と楽しみと、不安と畏怖がないまぜで現場に臨んだ。

相手に威圧感を与えないように気遣いをする
氏のおかげで、インタビューは快調に進んだ。

たっぷり時間もあったので、ノンフィクション表現についての、
個人的な疑問もたくさん質問し、氏の意見を伺うことができた。

さて、その中で「氏の美学」について、
話題が及んだときに、彼は言った。


「美学なんて、大げさなものではないけれど、
行動の指針として意識していたのは、
何を“するか”ではなく、何を“しないか”ということ」



「これをしよう」というよりも、「これはしない」という基準で、
結果的に、自分の行動が規定されているのだという。


この話を聞いていて、ふと、故つかこうへいのことを思い出した。
インタビューをした際に、あるいは酒の席で、つかさんは言っていた。


「人として大切なのは、何を恥と思うか?、それだと思う」


「人間は決して、自分が恥ずかしいと思うことはしない」と、
つかさんは信じていた。

だから、「最近では恥の概念がどんどんなくなっている」と、
憤りと不安を口にしていた。


学生時代から憧れていた沢木耕太郎インタビューの途中で、
まさか、つかさんのことを思い出すとは思わなかった。


今年は、他にも刺激的なインタビューがあったのだけれど、
それは時間を作って、おいおい、アップしていきたい。







shozf5 at 18:40|Permalink

2011年12月25日

クリスマスイブに78歳からのラブレター

78歳からのファンレター

年内の原稿書きがほぼ終わったので、
じっくり腰を据えたいゲラ直しや資料整理をしている。

仕事部屋には、高橋ユニオンズ、モーニング娘。、
そして、元アイドルのCDや写真集、
ジャイアンツ、太平洋・クラウンライオンズ……、

今年手がけた仕事の資料が山積みなので、
それらを整理し、資料部屋に運んだりしている。

でも、ついつい手元の資料類に目を通したりして、
なかなか思うように作業がはかどらない。

それらの中に、手紙やハガキが数多くあった。
数えてみると、全部で十四通

差出人は、いずれもかつて取材をさせてもらった方々。
その年齢は、みな70代以上の方ばかりだった。

現代では、要件のやり取りはほぼメールでなされる。
自筆で手紙を書き、切手を貼って投函するという、
こうした一連の作業は、かなり激減している。

しかし、やはりご高齢の方たちは、筆まめの方が多い。
そうした手紙をひとつひとつ読み返していたら、
取材時のさまざまなことが思い出されてきた。

札幌に住む76歳の方から頂いたハガキがある。
この方には一度もお会いしたことはない。
拙著『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』を読んで、
わざわざご丁寧な感想文を送ってくれたのだ。

それによると旭川には「スタルヒンラーメン」があるという。
ぜひ、今度、食べてみたいものだ。


あるいは、今月中旬にもらった手紙がある。
差出人は今年78歳になった大阪の女性
彼女は、戦後すぐに発足した女子プロ野球の選手だった。

二年ほど前に、僕は彼女に話を聞き、
原稿用紙50枚ほどの短編を書いた。

この原稿は諸事情があって、未発表のまま。
それでも、彼女は

「これまで、いろいろな取材を受けてきたけど、
 今までで一番お気に入りの原稿よ」


と僕を気遣ってくれた。


戦後すぐの焼け野原。
辺りをさえぎるものは何もない大阪。

大阪城だけがそびえ立っている夕闇の中で、
当時、十代だった少女は、野球道具を背負って、
疲れた体を引きずるようにとぼとぼと歩いている……。


彼女の話を聞いていると、絵が浮かんでくるようだった。
僕としても「いい作品ができたな」と思っていたものの、
結局、この原稿は陽の目を見ることがなく、
お礼として彼女に手渡しただけで終わってしまった。

それでも、彼女は折に触れて僕を気遣ってくれている。
11月にお会いする機会があったので、
発売されたばかりの新刊を手渡した。そのお礼が先日届いた。

いつもながらの達筆で、拙著に対する感想がつづられた後に、
こんな一文があった。


「長谷川さんのファンです」


今までもらったファンレターの中で、一番嬉しかったかも(笑)。
世間が浮かれているクリスマスイブの深夜。
薄暗い部屋で、この手紙を眺めながら過ごした。

……全然、寂しくなんかないもん。強がりじゃないもん。


……まったく資料整理がはかどらない。ヤレヤレ。





shozf5 at 13:03|Permalink

2011年09月16日

王さんインタビューの興奮と感動!

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一昨日(14日)、福岡・ヤフードームで王貞治氏のインタビューをした。
一日置いたにもかかわらず、いまだその心地よい余韻の中にいる。

現在進めている新刊の意図を十分理解してくれていた王さんは、
「話していると、だんだん思い出すね」と当時の思い出を語ってくれた。

聞きたかったポイントはいくつかあった。
その中でも、最初に聞きたかったのは次のことだった。


1975年1月17日――。

この日、スポーツメーカーに勤務していた若者が結婚式を挙げた。
若者は、ダメでもともとで王さんを結婚式に招待した。
実は、この日は阪神の主砲だった田淵幸一の結婚式でもあった。
もちろん、球界を代表する王さんにもその招待状は届いていた。

このとき、王さんのとった選択は、

初めに田淵氏の結婚式に少しだけ顔を出した後に、
ゆっくりとその若者の結婚式に出席するという道だった。
このとき、王は当時の番記者にこう言ったという。

「田淵君の結婚式は、オレが出席しなくても、
多くの人たちが祝ってくれるだろう。
でも、彼みたいな裏方さんの結婚式こそ、
きちんと出席して祝ってあげなきゃいけないんだ」


あまりにも、「らしい」発言だった。
このときの心境について、改めて王さんにその思いを聞きたかった。

僕は質問を切り出した。

「彼の結婚式の日は、田淵さんの結婚式でもありました。
そこで王さんは、はじめに田淵さんの式に出席した後に……」

そこまで言うと、王さんは僕の質問を遮るように口を開いた。


「でもね、裏方さんの結婚式こそ、ちゃんと出なきゃいけないんだよね」


……まさに、僕が聞きたかった言葉だった。

あれから36年の月日が流れても、裏方に対する
王さんのまなざしは温かく優しかった。

他にも聞きたかったことがいくつかあり、
それらに対しても、僕が聞きたかった言葉、
さらに「世界の王」だからこその言葉が数多く聞かれた。

本当に心地いい空間の中に身を置くことができた瞬間だった。



……普段、取材相手にサインをもらうことなどしない。
だから、同席してくれた編集者が「サインをもらおうよ」と
言ったとき、初めはカッコつけて「僕はいいです」と言った。

でも、彼が文房具屋で色紙を買っているのを見たとき、
「やっぱり、僕ももらいます!」と自然に口が開いていた。

そして、もらったのが上の写真だ。
色紙にペンを走らせているとき、
その部屋にいた誰もが気づいたけれど、
誰も口にできなかった言葉がある。


(……王さん、日付間違ってます……)


インタビューの最後の最後に、今度発売される
拙著『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』を王さんに手渡した。

この本には王さんのゆかりの人物が登場するからだ。
その人物は今年の春に亡くなった。
拙著を手に取りながら王さんは、彼の思い出話を語ってくれた。

「いい人ほど早く亡くなるんですよ……」


ひとしきり思い出話が済み、王さんが部屋から退出する。
その際に、僕に向かって王さんは言ってくれた。


「これから、たくさんいろんな本を書いてね!」


その瞬間、泣きそうになった。
その前日までに新刊の発売延期を決めたばかりだった。
どのように書き直そうか、暗中模索の渦中にあった。
そんな状態で王さんのインタビューに臨んだのだった。

いまだ答えは出ていないけれど、きちんとしたものを作ろう。
王さんの言葉を聞いて、改めて、そんな決意をした。

僕にとって、一生忘れられないインタビューとなるだろう。
取材音源は、絶対に消さないで保存しようと思う。










shozf5 at 16:57|Permalink

2011年06月09日

ヒクソン・グレイシーインタビュー

ヒクソン・インタビュー


資料部屋を整理していたら、懐かしい写真が出てきた。
かつて、「400戦無敗」と言われていたヒクソン・グレイシーだ。

彼にインタビューしたのは、「船木対ヒクソン戦」の翌日。
激闘から一日経って、都内のホテルで行った。

静かなたたずまいがとても印象的なインタビューだった。
……あれから、すでに11年も経つんだなぁ……。

以前、このブログでアップした短い文章を再掲したい。



フナキはとてもよく準備していたと思う。
 パンチの練習もしていたようだし、
 彼はいいファイターであることは間違いない。
 こんなに顔を腫れさせられた
 こともなかったしね……



その言葉どおり、翌日、病院での精密検査で、
眼窩底骨折と診断されることになる、
その左目は赤く充血している。


――東京ドームの激闘から40時間後。


ヒクソン・グレイシーは都内のホテルにいた。

2000年5月26日、
ヒクソンは、船木誠勝と東京ドームで闘った。

「400戦無敗」と喧伝されていたヒクソンは、
船木相手に危なげのない勝利を収めていた。


試合の詳細について振り返ってもらいつつ、
僕は、実にシンプルな質問をした。


――どうして、あなたはそんなに強いのか、と。


負傷した左目を気にしながらヒクソンは言う。


私は、“強さ”とは、
 セルフコントロールだと思っている。
 もし、私が強いというのなら、
 それは私がセルフコントロールを
 心がけているからではないか……



このころ、世の中では、
10代による凶悪犯罪が頻発していた。
ヒクソンは、そんな日本の現状を憂い、
日本のティーンエイジャーにメッセージを送った。


どうか自分自身を信じてほしい。
 自分の中に、まだ自分が気づいていない、
 未知なる力が必ず眠っている。
 
 自分でも気づいていないパワーが必ずある。
 そのパワーを信じて、自分が直面する
 困難を乗り越えてほしいんだ……
 


そうして、ヒクソンは、色紙に
こんなメッセージをしたためた。


STRONG SPIRIT
 STRONG LIFE



この日、僕の取材の後に、
不調に苦しんでいた、当時ジャイアンツの
清原和博がヒクソンの下を訪ねた。

そして、ヒクソンは、清原にも
この言葉を贈ったという。


取材終了間際、
ヒクソンの口調が強くなる。


人生は変わる!
 だから自分を信じてほしい!



そして、静かにうなずいて、
改めて、何度も口にした。
口調はすでに穏やかになっている。


Believe in yourself……

Believe in yourself……

Believe in yourself……








shozf5 at 00:49|Permalink

2010年05月07日

「死ぬことは怖いですね……」〜忌野清志郎取材テープより〜

DSCN3940

探し物があって、資料部屋にこもっていたら、
ある時期の「取材テープ」がゴソッと出てきた。

しばし、懐かしい思いとともにそれらを見ていると、
7年前の、ちょうど今頃に行われた取材MDがあった。
ラベルには、


「忌野清志郎インタビュー」


と書かれてあり、日付は「03.5.9」となっていた。
瞬間的に、7年前のあの日のことがよみがえってくる。


……あの日、僕はとても緊張していた。
いや、編集者もカメラマンも緊張していた。
なぜなら、みんな清志郎が大好きだったからだ。

雑誌の表紙とグラビアの撮影とインタビュー。
3時間もスタジオで「キング」「ボス」と対面するのだ。
みんなが緊張するのも当然のことだろう。

あの日の独特の緊張感、撮影の際の彼の静かなたたずまい、
そんなことが一瞬にしてよみがえってきたのだった。


(……聞こうか、聞くまいか……)


自分のインタビューテープを聞いて、
幸せな気分になることは一度もない。

(何で、ここでもっと突っ込まないんだ!)

(あぁ、このフレーズがポイントだったのに……)

という、内容的な反省点ばかりだし、
緊張しているのに冷静なフリをしている自分もイヤだし、
とにかく、何もかもがイヤだ。

……でも、誘惑には勝てなかった。
長年使っていなかったMDプレイヤーを引っ張り出し、
勇気を出して、再生スイッチを押した……。


途中、何度も(聞かなきゃよかった)という思いに支配される。
寡黙な清志郎に対し、何とか突破口を探ろうと、
必死に(表向きは冷静なフリに)なっている自分がいた。
それが上滑りとなってなかなか噛み合わない。


(しかし、下手クソなインタビュアーだな……)


我ながら、自分が情けなくなってくる。

途中で、「停止」ボタンを押そうと思った。
その瞬間、僕はテープに聞き入ってしまった。
清志郎が「死」について語りだしたからだった……。


続きを読む

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2010年04月10日

追悼、木村拓也選手…… 〜取材メモから〜


福岡ヤフードームでの取材を終え、先ほど帰京。

書かねばならない原稿があるので、
呑みにも行かず、すぐにパソコンを立ち上げる。

そして、ここ数日、「巨人 キムタク」で検索して、
このブログにたどりつく方が多いことに気がついた。

僕は以前、こんな記事をエントリーした。


「キムタク」に本物も偽物もあるか!
〜ジャイアンツ・木村拓也選手インタビュー〜



去年の10月、東京ドームで木村選手に話を聞いた。
シーズンを1位通過し、CS、日本シリーズに臨む直前のこと。

このときには、この年の9月4日について話を聞いた。

――9月4日。

木村選手は、捕手として急遽、試合に出場し、
チームの危機を救い、優勝へ一歩前進することに成功。

この試合での感情の揺れ、そして、プロ19年生としての矜持、
「チームのために」という美学、そんなことを聞いた。

この日の取材音源が残っていた。

すぐに取りかからねばならない原稿を抱えていたけれど、
「再生」を押し、このときの取材を反芻した。

終始、照れながら、でも、少し得意げな様子も見せながら、
ヤクルトの青木を三振に仕留めた際の配球について語ってくれた。


「実はあの場面では、青木を迷わすために、
もうひとつ試したことがあるんです……」



インコースを意識している青木に対して、
木村「捕手」は、あえて早めにインコースに構えたという。


「バッターというのは、キャッチャーが
自分のところに寄ってきたというのは、
視界に入るので何となくわかるんです」



初めから「インコースのスライダー」で、
青木を仕留めるつもりだった。

だから、それまでの配球において、
「アウトコースのスライダー」か、
「インコースのシュート」を意識させておいた。

そしてあえて早めにインコースに構え、
さらに強く「インコースのシュート」を意識させた。
その上で裏をかいて、「インコースのスライダー」を投げさせた。

そして、狙い通り青木は空振りの三振。


「キャッチャーの楽しみってこれなんだなと思いました」


そう言って、木村選手は白い歯をこぼした。
あれからわずか半年。

まさかこんな事態になろうとは……。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします……。






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2010年04月03日

おめでとう、興南高校! 〜我喜屋優監督インタビュー〜

興南高校・我喜屋監督

本日、ついに興南高校がセンバツで優勝!

女子野球日本代表セレクション取材のため、
リアルタイムで観戦することはできなかったけど、
携帯速報やラジオを聞いている方から経過を聞いていた。
そして、延長の末、島袋投手が見事に完投勝利!

高校野球において、特別贔屓のチームがあるわけではないけれど、
先日、興南高校の我喜屋監督にじっくりとお話を聞いて以来、
今春は、にわか「興南びいき」として、
興南の試合だけは、テレビにかじりついて観ていた。

チームを強くするために、生活面からの改革を試み、
奥さんともども選手たちと一緒に選手寮に住むことを決意。

以来、「押すところと引くところ」をわきまえつつ、
選手たちにとっての「監督」「父親」「友だち」、
ときには「カウンセラー」としての役割を任じる日々。

独特の表現方法や実体験に基づく指導方法など、
僕はその話にかなり魅了されながら取材をした。

我喜屋監督へのインタビューは、
メジャーキャンプ取材前の慌ただしい中で行い、
慌ただしい執筆となったけれど、僕にとっても思い出深い取材に。

今晩は、じっくり興南高校の戦いぶりを反芻しながら、
うまい酒を呑みたいと思う。

ちなみに、以下の雑誌に、このときのインタビューを基にした
原稿が掲載されています。よろしければ、ぜひご一読を!

ホームラン 2010年 04月号 [雑誌]ホームラン 2010年 04月号 [雑誌]
販売元:廣済堂出版
発売日:2010-03-05
クチコミを見る



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2009年06月15日

『三沢光晴の「美学」』に酔いしれて……

なおも、三沢さんについて書く。
三沢さんの死を知って以来、資料部屋に行き、
三沢さん関連書籍、雑誌を読み続けている。

三沢さんにインタビューしたときのMDも見つかったし、
当時の試合ビデオもいっぱいあったのだけれど、
ちょっとまだ辛くて見る気がしないので、
もっぱら活字で、三沢さんを偲んでいる。

98年10月31日の日本武道館大会。
メインイベントは、王者・小橋健太(当時)対三沢光晴。

試合は、43分29秒、左右のワン・ツー・エルボーで、
三沢さんが第20代の三冠王者に輝いた。

週プロ・98.11.17号












当時の「週プロ」の記事を読んで、この試合が鮮明に思い出された。
本当に、すごい試合だった。

ターンバックルに顔面から打ちつけられたとき、
「三沢さん、死んじゃうんじゃないか?」と本気で心配した。
馬場さんも「すごい試合だった」と総括していた。


そして、この試合の後、僕は三沢さんと呑んだ。


昨日も書いたように、この頃、三沢さんの本を作っていたので、
このときも、三沢さんの友人たちとともに、朝まで呑んだのだった。
43分もの激闘を終え、満身創痍にもかかわらず、
それでも三沢さんは笑顔で、淡々と呑み続けていた。

いつか、もう少し気持ちの整理ができたなら、
この試合を改めて、見直してみたい。



資料部屋にあった本の中では、
2002年に出版されたムック『三沢光晴の「美学」』が面白かった。

週プロスペシャル・2003












三沢さん本人のロングインタビューや、
ゆかりの人たちのインタビューが満載されていて
過去の写真などもかなり充実している。

その中でも特に、今は亡き冬木弘道のインタビューがよかった。
若い頃、地方会場で地元ヤクザと揉めたときのこと。

冬木引退興行開催を決定するにあたって、
初めて三沢さんが「公私混同」したこと。

社長としての「ビジネス」と、先輩後輩としての「友情」を
巧みに折り合いをつける三沢さんの心意気について。

いろいろ、いいエピソードが満載だった。


これらのエピソードは直接見聞した事ではないけれど、
三沢さんの取材を通じて、あるいは酒場でのやりとりで、
「男気」と「ユーモア」と「ダンディズム」を感じさせる
そんなエピソードはいくらでもあったことを思い出す。

『三沢光晴の「美学」』、改めてゆっくりと読み直したい。
そして、その「美学」に酔いしれつつ、静かに酒でも呑みたい。



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2009年06月14日

馬場さんが亡くなったときのこと 〜三沢光晴インタビューから〜


さらに、三沢さんについて書きたい。

これまで三沢さんには何度も話を聞いている。
ここ最近はごぶさたしてしまっていたが、
最後にきちんとインタビューをしたのが数年前。

「かなしみ」というテーマで、色々な人に、
自らの「悲しみ」、「哀しみ」について、
語ってもらう企画で登場してもらった。

短い文章なので、以下に、その全文を掲載したい。
文中にある「馬場さん」についてのエピソード。
三沢さんが亡くなった今読むと、改めて感慨深い……。





かなしみ

「今、若者が頭に血が上るとすぐに、“殺す”とか
口走るようだけど、そんな言葉はオレには使えない。
人ひとりの人生を殺すとか、殺さないとかね。

そこまで育つためにいろんなことがあっただろうし、
それを全部、オマエは背負えるのか? その覚悟はあるのか?
それは、オレだって背負える自信はないし、実際に背負えない。

その辺の人生の重さ、命の重さ、人の痛みを考えてほしい。
ケンカして、頭に血が上っているときに、
そこまで冷静になるのは難しいかもしれないけどね。

泣くことはあるか、って?
うーん、ケガの痛みでは泣かないし、
悔し泣きも、高校以来ないし……。

身内が亡くなったこともないので、
人の死というものはあまりピンとこないんだけど、
(ジャイアント)馬場さんが亡くなったときに、
すごく泣いたことを覚えています。

亡くなってから3日後ぐらいなんですけどね。
ふとした瞬間なんです。
友だちとカラオケをしていたとき。

そのときは(松山)千春さんの歌で、
ドラマ『みにくいアヒルの子』の主題歌なんかを歌っていて、
ふと涙がこぼれたんです。
最初は、ポロッと。そのうち、声を出して……。

酒を呑んでいたっていうのもありますけど、
その日は朝方までずっと泣いていました。

でも、泣くときはあんまり我慢しない方がいい。
泣くだけ泣いて、サッパリする、それって大事ですよね。

わかりやすく言うと、女性とケンカして、
いつまでもヒクヒクしてる女って、
自分が悪くても何かムカついてきますもんね(笑)。

でも、何で3日後なんだろう?
きっと、“実感”の問題なんでしょうね。
いて当たり前の人がいない。二度と会うことができない。
それを実感するのに3日という時間が必要だったんですかね。

馬場さんの死で、人の命の重さや、人の存在感、
そんなことを考えさせられました。

偉そうなことを言ってるけど、このオレも仕事上、
体の痛みはよくわかるけど、他の人の気持ちの痛みは、
きっと死ぬまでわかんないでしょうけれどね……」





shozf5 at 10:41|PermalinkComments(7)TrackBack(0)

素顔の三沢光晴 〜取材を通じて〜

僕がまだ編集者時代に、三沢光晴さんと出会った。
当時、全日本プロレスに所属していた三沢さんは、
「四天王」のリーダーとして、名実ともに輝いていた。


そして僕は、同じく編集者のS先輩とともに、
「四天王」を中心にした書籍を編集することになった。
執筆するのは、音楽ライターの長谷川博一氏。
(僕と同じ「長谷川」だけど、親戚関係はまったくナシ)

三沢さんの大ファンである長谷川さんは、
どうしても「四天王」の本を出版したく、
企画をまとめてS先輩に相談し、実現の運びとなっていた。


その取材を通じて、三沢さんには実によくしてもらった。
激闘を終えたばかりの、仲間だけが集まる呑み会にも、
何度も呼んでもらい、リング上の姿とは正反対の
素顔に触れるたびに、その人間性に魅了された。


その後、「四天王」本は無事に出版され、
幸いにも、好評を博し、売れ行きも好調だった。


そこで、今度は会社に対して、
「三沢さん単体の本を出版したい」と直訴した。
前作が売れていたこともあって企画はすぐに通った。

三沢さんに出版依頼をすると、いつもの静かな笑顔で
「あぁ、いいですよ」とニヤッとしながら快諾してくれた。


――取材は楽しかった。


回を重ねるごとに親しみは増し、酒量も増していった。

この取材過程で、ジャイアント馬場さんが亡くなった。

全日本プロレスの団体存続問題、次期社長問題、
さまざまなものが、当時「エース」の座に就いていた
三沢さんの両肩にのしかかりつつあった。
ちょうどその頃、三沢さんの取材を続けていた。

酒の席で、つらつらと自らの心境を語ってくれた。
当時、抱えていたさまざまな問題は生々しかった。
ちょうどその頃、「ノア」という言葉を耳にした。

三沢さんの中には、後に彼が旗揚げすることになる
現在の「ノア」のイメージが出来上がっていたようだった。

三沢さん単独の単行本は無事に発売され、
こちらも、多くのファンに好評のうちに迎え入れられた。


それ以降も、武道館で試合が行われたその日の夜、
三沢さんと呑む機会を、たびたびいただいた。

いつも淡々とグラスを呑み干し、
気心の知れた仲間たちとバカ話に興じていた。

あるとき、「3人で呑みたい」とS先輩とともに三沢さんを誘った。

青山の鮨屋で、三沢さんとカウンターに並んだ。
相変わらず淡々と呑み続ける三沢さん。
それは実に、ゆったりとしたいい時間だった。
その鮨屋では、何度かともに時間を過ごした。


ある日のこと。


心地よい酔いのまま、店を後にし、青山をブラブラ歩いているとき。
三沢さんが、ぶっきらぼうな口調で、僕たちにこう言った。


「いつでも、連絡してよ、……友だちなんだからさ」


この言葉を聞いて、とても感激したことをハッキリと覚えている。


三沢さんに対して、馴れ馴れしく接することは、
もちろん、その後も決してなかったけど、それでも僭越ながら、
「オレたちは友だちなんだ」という思いは、
僕の中にはしっかりと息づいていたし、
それはS先輩もまた同様だったことと思う。


その後、僕は勤めていた会社を辞めた。
そして、女子高生の奮闘を描いた最初の本を出版したとき、
「こんな本を書きました。もしよかったらお嬢さんに」と
三沢さんに、件の鮨屋で本を手渡した。

その翌年、三沢さんからいただいた年賀状には、
娘さんからのお礼の一文が添えてあった。

きっと、三沢さんが娘に命じて書かせたのだろう、
そう考えると、年明け早々、幸せな気分に包まれた。



昨日、「友だち」が逝った、という。


追悼の意を込めて、古いビデオを引っ張り出してみた。
けれども、どうしてもそのビデオを見ることができなかった。

代わりに、当時、出版された本を朝方まで再読した。
当時の三沢さんのことがさまざま思い出されて、
胸が苦しくなったけれど、それでも、
「この本を作ってよかった」と改めて思った。




三沢さん、本当にどうもありがとうございました。
どうか、安らかにお眠りください。

三沢さんが、リング内外で見せてくれた様々な男気。
少しでも近づけるように、僕も見習います。

本当に、どうもありがとうございました……。



shozf5 at 10:27|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2009年05月03日

追悼 忌野清志郎 〜清志郎インタビュー〜

……忌野清志郎が亡くなったという。

今から6年前。
僕は清志郎にインタビューをしたことがある。
確か、2時間ぐらい話を聞いたように思う。

高校時代から、RCサクセションが好きで、
清志郎の、原発ソング、君が代騒動など、
リアルロックスターとしての生き方に魅せられていた。

取材当日の、物静かな雰囲気が今でも、とても印象深い。
スタジオでの撮影は長時間に及んだ。
真っ白なスーツを着て、愛用のギターを手にする。
真っ白なスタジオ内にたたずむ、真っ白ないでたちの清志郎。

カメラマンのシャッター音にかき消されるような、
耳を澄まさなければ聞こえないような小さな音色で、
清志郎はギターを弾いていた。

あまりにもその姿が美しく、
残念なことに、何を弾いていたのか、
とても大事なことを見落としてしまっていた。


……そんなことを思い出した。

当時書いた原稿を以下に引用し、
希代のロックスターに、哀悼の意を表したい。





「よろしくお願いします」
 撮影を終え、私服に着替えたロックスターがメイクルームから現れる。長時間に及んだ撮影に少々疲れ気味なのか。静かなたたずまいが印象的だ。
 インタビューが始まる。視線を落とし、決して、こちらと目を合わさない。その声は小さく、何を聞いても、ボソボソ話す。ステージ上で過激なリリックをシャウトしている、その片鱗はない。

「ミュージシャンになりたいっていうのは、早いうちから思ってましたね。昔はオーディションがいっぱいあって、いろいろ受けてたらほとんど受かっちゃうんですよ。で、高校3年の夏休みに東芝音工(現・東芝EMI)からレコードを出せることになって、大学受験をやめたんです。自信? えぇ、ものすごくありましたね。でもね、順調なデビューを果たしたものの、すぐに、“暗黒時代”が訪れたんです。
 最初のアルバムは売れないわ、仕事を干されて3年以上もレコードを出せないわ……。でも、そんなときでも自信はあった。“これ以上稼がないと一人前じゃない”とか、そういうこと考えなかったから。
 高校時代の同級生が大学に行っていたり、就職していることについても、不安やあせりはなかったなぁ。“みんな、普通だな”と思ってた。別に普通でいいのかもしれないけど、僕はイヤだった。50人ぐらいの集団が机を並べてみんなで座っているという状態がホントにイヤだったんですよね。大学もそうだと思ってたし、サラリーマンになっても机がたくさん並んでて、そこにみんなで座ってるのかと思うと、とても、そっちには行きたくなかった」

 相変わらず、視線を机に置いた手元に落したまま、淡々とインタビューは続く。その誠実な態度と、ライブ・パフォーマンスとのギャップに驚かされる。
 そう、つい先日、(03年)4月22日の日本武道館で開催された地球規模の保護・保全を訴える「アースコンシャス・アクト」コンサート。事前の進行段取りを無視して、「海辺にいたらタダで拉致して連れていってくれるよ〜」と叫ぶ、「あこがれの北朝鮮」を、そして、パンク調にアレンジした「君が代」を主催者の反対をも無視して、確信犯で演奏し、放送差し替え騒動を起こしたばかりだった。

「“こんなこと歌ったら、みんなビックリするだろうな。オレだけだろう、こんなこと歌うのは”、そんな喜びが大きいですよね。こないだの『君が代』にしても、狙い通り(笑)。自分のホームページでその経緯を書いたんだけど、僕はいつもの歌を歌っただけなのに。あのホームページはね、わざと冷静なトーンで書いたんだ。
 あそこで怒りをぶちまけると、“忌野、根に持つタイプだな”とか思われるじゃない(笑)。一種の犯行声明? 違う、違う(笑)。
 でもね、問題にしたいのは、FM東京側の言う、『君が代』は電波には乗せない。『あこがれの北朝鮮』は演奏すら認めない、という点。民主国家として、これでいいのかって。事前の打ち合わせで、演奏してはダメだって言うから、“だったら出ません”って言ったんだけど、どうしても忌野清志郎に出てほしいみたいで(笑)。
 だから、別の曲をやるってことにしてね、一応、リハもやったんですよ、納得させるためにね(笑)。演奏中の心境? そりゃ楽しくてしょうがないですよ。
 業界から抹殺される不安? うーん……、婦女暴行とかやんなければ大丈夫かな(笑)」

 この“騒動”を振り返ったとき、それまでの静かな、静かな、清志郎の顔に初めて、表情のようなものが宿った。話に出てくるホームページ上で、清志郎はこう語っている。

「ファンのみなさん、僕はぜんぜん平気で、何とも思っていません。どうぞ、心配しないでください。また僕のコンサートに来てください。僕はいつでも手を抜いたりしません。君のためにいっしょうけんめい歌うよ」(原文ママ)

 このピュアな言葉と、そして、「狙い通り」と言って、ニヤリと笑う姿は、いたずらが成功した、少年のそれを彷彿させる。
 忌野清志郎の中に潜む「少年性」。彼は、「永遠の少年」と称されることも多い。

「なんだか、気恥ずかしいですな(笑)。まぁ、自分ではある程度、そうですね。半分ぐらいは大人だと思っているんですけど(笑)。まぁ、80までには大人になりたいですけどね。今の若者の印象? イヤな感じは全然しないですよ。素直ですよね、みんな。今、若い人も、大人になると楽しいことが終わっちゃうふうに思っている人が多いと思うけど、“そうじゃないんだ”っていうのを、僕は言いたいですね。
 若い頃は、30代、40代に対して、頭が固まっちゃってるというか、“古いな”と思ってましたね。でも、よく見れば、“大人になるのも悪くないな”と思えるような人はたくさんいると思いますよ。
 さっきのFM東京の件にしても、会社の体質っていうのはあるかもしれないけど、社員全体がそういうわけでもないだろうしね」

 「大人」が尻込みしてしまう、反核、反戦、君が代、北朝鮮問題なども、清志郎は「少年」だからこそ、堂々と言えるのだ。
「王様は、裸だ!」と。
 それにしても、なぜ清志郎だけが、問題になるのか? なぜ、彼だけが、騒ぎを起こすのか? ジャパニーズ・ラッパーが、いくら挑発的なリリックを並べても、社会を揺るがす一大事にはならない。清志郎の“言葉”はなぜ、そんなに届くのか?

「言葉が届かないっていうことは問題ですよね。いろいろ原因はあると思うんですけど、やっぱり、いちばんはリズムだと思う。リズムのことをしっかり考えないとね。言葉が抜けるようなリズム、声が抜けるような感じ。そこがいちばんだと思いますね」

 インタビューの後半、50問にわたる、一問一答取材を試みた。たとえば、こんな風に。

――“頭のいい人”って、どんな人ですか?
「最後に笑う人でしょうね」
――“バカな人”ってどんな人ですか?
「背伸びしてる人、かな」
――あなたは何のために生まれたのですか?
「生きるためですね」
――日本の好きなところはどこですか?
「温泉がたくさんあるところですかね」
――日本の嫌いなところはどこですか?
「後先考えず、自然を破壊してしまうところ」
――あなたは国のために戦えますか?
「戦えません」
――戦争について、どう思いますか?
「もういいかげんになくなってほしいです」

 そんなやり取りの中で、いかにも“らしい”フレーズがあった。「生まれ変わるなら何人(なにじん)になりたい?」という質問に対して、彼はこう答える。

「何人っていうか、国っていうものがなくなってくれればいいと思いますね。生まれ変わる頃には」

 その理由を聞く。

「国っていうものが、地方都市みたいになっちゃえば、地球っていう、1個のものになると思うんですよね」

 そう答えたあと、ちょっと照れて「国連みたいな考え方って言うんですかね」と笑った。清志郎は、ジョン・レノンの『イマジン』を自ら清志郎流に訳詞して歌っている。最後の質問を投げかける。

――あなたは一体、誰ですか?
「忌野清志郎です」

 彼は、間髪入れずに答えた。そして、ロックスターは「お疲れさまでした」と立ち上がる。100万円以上かけてカスタムしたという愛車の自転車にまたがり、改めて「じゃあ」とスタジオを去っていった。それは、やはり、ステージ上とは異なる、静かな静かなたたずまいだった。





shozf5 at 01:26|PermalinkComments(4)TrackBack(0)

2008年08月03日

追悼・赤塚不二夫先生……

漫画家・赤塚不二夫先生が亡くなった。
生前、いろいろお世話になった、
さまざまなことを思い出しながら、
昨日は静かに、飲みました。

お酒の飲み方を教えてくれたのも、
先生だったように思います。

どうぞ、安らかに。
……合掌。


shozf5 at 22:41|PermalinkComments(1)TrackBack(0)
PROFILE
SHOICHI HASEGAWA 
1970年5月13日・東京生まれ。
ノンフィクション・ライター
日々、旅をして、人に出会い、
話を聞き、それを文章にする。
そんな日々の雑感です。
長文になると思います。

ちなみに、上の写真は、
モハメド・アリ@北朝鮮です!
(07年3月1日付参照のこと・笑)
shozf5@gmail.com


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