懐かしき文章たち……

2012年04月09日

再録・2010初夏・宮國椋丞インタビュー

糸満・宮國投手 (2)


ジャイアンツ・宮國椋丞がプロ初勝利を挙げたという。
一日中、こもりきりで原稿を書いていたため、
その雄姿を見ることはできなかったけれど、
入団一年目から期待していただけに、
プロ初登板で初勝利を挙げたのは僕も嬉しい。

旧知のジャイアンツ担当に今日の試合について聞いたら、
彼曰く、

「6回以降は変化球が高めに浮き始めましたが、
それまでは低目を丁寧に突き、
人を食ったようなスローカーブも有効でした。
正直、澤村などよりも内容のあるピッチングでしたね」
とのこと。

ますます、生で見てみたくなった。

2010年初夏、沖縄県予選開始直前のこと。
僕は、沖縄・糸満高で宮國のインタビューをした

手足の長さとスタイルの良さに驚いた記憶がある。
その投球を見て、さらに驚かされた。

上原監督曰く「極度の口下手ですよ」と聞かされ、
いろいろ気を遣いながら話を聞いたのが懐かしい。

彼はどんな受け答えをするようになったのだろう?
プロに入って、変化があったのか、なかったのか?
ぜひ、インタビューをしてみたいものだ。

というわけで、当時書いた原稿を再録したい。
媒体は『ホームラン』(2010・6+7)号

巻頭特集「今ベールを脱ぐ夏の新ヒーロー」の
文字通り巻頭に掲載されたものだ。
この号で、宮國は表紙も飾っている。




遠くからでも、すぐにそれとわかるユニフォーム姿。
長身で手足が長く、その投球フォームは
実に優雅で天性の華がある。

糸満高校のグラウンドに入ってすぐに
目についたのが宮國椋丞だった。身長183臓体重74繊
スマートな体躯から繰り出される伸びのあるストレートは
常時140キロ台を計測しているという。

バッターが思わず腰を引いてしまう高速スライダーも小気味いい。
糸満高校・上原忠監督も宮國の実力には太鼓判を押す。

「入学時は63舛靴なくて、ガリガリのマッチ棒ですよ。
でも高2の冬のトレーニングで、少しお尻の周りに
筋肉がついて身体ができてきた。
ストレートのキレや伸びはすごいね。
とっても器用なのでスライダー、フォーク、シンカーも
何でも投げられるよ。僕は反対なんだけど」


その理由を聞こう。

「せっかくいいストレートを持っているのに、
今は直球と変化球を5対5の割合で投げている。
僕は7対3で、直球が多くていいと思うんだけどね」


マウンド上の宮國の投球を見ながら上原監督はつぶやいた。

「この冬にフォームを変えたら、
さらにすごいピッチャーになりました。
これから夏に向けて、まだまだ楽しみです」


練習終了後、宮國の女房役である島袋陽平捕手に話を聞く。

「変化球も多彩だし、真っ直ぐの質も群を抜いています。
ピンチでもいつも冷静で、とても頼りになるピッチャーです」


そして、投球練習を終えて、
クールダウンを行っていた宮國に話を聞いた。

「まだストレートは本調子ではないけど、
夏までにはいい調子に仕上げていくつもりです」


練習終了後で、疲れているのか、それとも緊張しているのか、
表情は堅い。上原監督の「ものすごく口下手だから、
取材は大変ですよ」という言葉を思い出す。

続けて「現在の球種」について、質問を投げかける。

「今はそんなに多くの球種を投げていなくて、
ストレートとスライダーとカーブぐらいです。
監督には毎日言われているけど、
自分は真っ直ぐを軸に押していくピッチャーだと思うので、
今はストレートに磨きをかけるように練習しています」


監督の言う「フォーム修正」についても尋ねてみた。

「今まではスリークォーター気味で
ヒジが下がることが多かったんですけど、
この冬にオーバースローに変えてからは、
こっちのほうが投げやすいです。
とにかく今は、フォームを固めているところです」


全国有数の激戦区である今年の沖縄にあって、
「打倒興南」の最右翼として注目されている糸満高。

実際に宮國は08年の1年生大会で、
今春のセンバツ優勝投手、興南高・島袋洋奨に
投げ勝って優勝を遂げている。

しかし、本人は謙遜なのか、謙虚な性格なのか、
「ライバル」と目されている島袋を大絶賛する。

「彼の甲子園での活躍は自分にとっても
いい刺激になっています。
でも、彼の方が一枚も二枚も上手で、
技術も精神面の強さも、すべて尊敬しています」


あまりにも謙虚で優等生すぎる発言。
少し意地悪な気持ちを込めて質問をする。

――1年時には自分が投げ勝ったのに、
今では全国区の有名投手となった島袋君に
悔しさを感じることはありませんか?

まったく表情を変えることなく、宮國は言う。

「まったくそんな思いはないです。本当に尊敬しています」

――じゃあ、ライバル選手、ライバル校はありますか?

こちらとしては「もちろん、興南の島袋です」という答えを
期待しての問いだったが、またしても宮國は淡々と答える。

「今の沖縄はどこもレベルが高いので、
どの学校もライバルだと思っています」


質問の矛先を変える。

――戦いたい相手は誰ですか?

自分でも「誘導尋問のようだな」という自覚をしつつの
質問だったが、ようやく宮國の言葉に力強さが加わった。

「やっぱり、決勝は興南と当たって、
島袋と投げ合って勝って甲子園に行きたいです」


それははたして本心だったのか、
それとも拙い取材者の意図を汲み取って、
気を遣った上での発言だったのか? 
そんな不安を抱き、反省していると宮國は言葉を続けた。

「沖縄県大会を制して、甲子園の大観衆の前で
投げているイメージを想像して、
今はモチベーションを高めています。
手強い相手だけど、興南とも互角に戦えると思っています」


島袋捕手が救いの手を差し伸べてくれた。
上原監督曰く「沖縄の高校野球史上一番かも」という強肩が自慢だ。

「センバツ優勝校の興南高にはしっかり対策を練って戦います。
でも実力は五分五分で、
どっちが勝ってもおかしくないと宮國とも話しています」


糸満高校では宮國に加えて、この島袋陽平も
全国レベルのキャッチャーとして注目されている。
確かに、練習で見せたセカンドスローイングは
高校生のレベルを大きく超えていた。
宮國による島袋評は次の通り。

「とても信頼できる頼もしいキャッチャーです。
いつも、ピンチのときには“ちゃんと腕を振れ!”と
気合を入れてくれます。でも、クラスも一緒なんですけど、
普段はあんまりしゃべったりしないけど(笑)」


憧れの投手は、岩隈久志(東北楽天)と
岸孝之(埼玉西武)だという宮國。
いずれも長い手足を生かしたキレのいいストレートと
バランスのいいピッチングが持ち味だ。

はたして、打倒、興南・島袋洋奨の最有力候補である
宮國椋丞は沖縄県大会でどんな投球を披露するのか? 

全国的にはいまだ無名のヒーロー。
その雌伏のときは終わりを告げ、
大空に向けて今まさに羽ばたこうとしている――。



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2010年08月06日

雌伏――2008年の由規――

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本日(5日)も、原稿を切り上げて神宮へ。
で、由規のプロ入り初完封を堪能した。
スコアブックをつけていなかったけれど、
4併殺、8奪三振の快投はテンポもよく申し分なし。

先週の初完投も神宮で見たけれど、
まさか翌週にすぐに初完封をするとは!

由規には2008年のルーキーイヤーにインタビューをした。
彼にゆっくりと話を聞いたのはその一回だけだが、
笑顔が爽やかな好青年ぶりに好感をもった。

そのときに短い文章を書いた。懐かしくて読み返してみた。

2008年の7月に書かれた文章ですが、
お時間のあるときにでも、ぜひどうぞ!

おめでとう、由規!!!




雌伏 ――スワローズ・由規――2008.07

昨年のドラフト会議で、5球団からの指名を受けた黄金ルーキー。
誰もが惚れ惚れとする天性の才能の持ち主である。
しかし、そんな期待の新星も、開幕以来、いまだ1軍経験はない。
それでも、スワローズ・由規はまったく腐ることなく、
ファームの地――埼玉・戸田グラウンドで、雄飛のときを待ち続ける。
由規にとっての現在進行形の「1年目」とは、どんなものなのか?



背番号「11」、そして「22」
2人だけのキャッチボール


 7月の埼玉・戸田グラウンド――。
 2人の若者が力のこもったキャッチボールを繰り返している。お互いに大きく振りかぶって、容赦のないスピードボールを相手のグローブめがけて投げ込む。距離にして、ちょうどマウンドからバッターボックスぐらいだろうか? 試合本番さながらの真剣さで、それぞれが自慢の速球を投じている。

 2人の若者の背番号は、「22」と「11」――増渕竜義と由規――。プロ入り2年目と1年目の新鋭は、この時点で20歳と18歳のスワローズ期待の若手投手だ。

 ルーキー・由規は先輩に対して、何ら臆することなく、力のこもったボールを投げ続ける。一方、先輩・増渕は、年長者としての意地を見せつけるかのように、さらに勢いを増したボールを投じる。

 周囲で見ている者がハラハラするほど、互いの意地が込められたスピードボールの投げ合いは、しばらくの間続いた。辺りには、ボールがグローブに収まる「パーン」という乾いた音と、お互いの静かな息遣いだけが響き渡っている。誰も寄せつけない、2人だけの世界が、そこにはあった。

「増渕さんは、1歳違いなので、すごく話しやすいし、いろいろなことを教えてもらっていて、すごく親しみやすい人です。もちろん、先輩としてきちんと敬っていますよ(笑)」

 屈託のない笑顔で由規は言う。技術面での質問はもちろん、練習中に感じた疑問など、気になったことを由規は質問する。たとえば、それはこんな内容だ。
「1軍の試合は、どんな雰囲気なんですか?」
 ルーキーからの質問に対して、「先輩」は自分の体験、感想を率直に語る。
「1軍と2軍は、1球に対する集中力が全然違うと思うよ。球場の雰囲気、お客さんの歓声も違うし、細かい難しいプレーもたくさん入ってくるから」
 1軍経験のない「ルーキー」は、先輩の話をじっくりと聞いている。

 また、練習終了後、夕食を終えて野手陣が夜間練習に励んでいるころ。投手陣は合宿所のリビングにあるテレビでプロ野球中継を見ることが多い。そこでも、由規は、熱心にテレビ中継に見入っている。
(自分なら、この場面、どこに投げるかな……)
 このように投手目線で考えることもあれば、打者の細かい仕草に注目して観戦することもある。
(バッターは、今、どこを狙っているのかな?)
 今は、技術的にも知識としても、野球に関する好奇心が旺盛な時期にある由規。

 昨夏の甲子園のアイドルは、すっかり日焼けをし、体つきも一回り大きくなったように見える。ファイターズ・中田翔、マリーンズ・唐川侑己とともに「BIG3」と称され、世間の話題を一身に集めたゴールデン・ルーキー。
 ドラフト終了時の会見で思わず感極まって涙を見せた「泣き虫王子」こと、由規。彼は今、ファームで雌伏のときを過ごしている――。


唐川の好投は自分にとっても
いい刺激となっています


 春季キャンプでは、期待通りに1軍帯同を果たした由規だったが、7月を迎えても、いまだ1軍での登板経験はない。彼にとっての、「ルーキーイヤー」、現在進行形の「1年目」とは、どんなものなのか?

「入団前のビジョンとしては、まずは自主トレにきちんとついていって、身体を作ることを第一に考えていました。それで、その次には、1軍のキャンプに参加できることを目指して、それを果たすことができたので、次は開幕1軍を目指したんですけど……」
 2軍降格を伝えられたときの心境を聞くと、「正直、テンションが下がった部分があります」と語る。

――1軍には「当然行けるものだ」という意識はありませんでしたか?
 そんな意地悪な質問に対しても、真っ直ぐ、正面を見据えて率直に由規は答える。
「……キャンプの時点では、そう考えていました。でも、オープン戦で結果を出せなかったから、2軍に落とされたのは当然だし、自分でも納得しています」

――ファーム行きが決まって、「テンションが下がった」とき、どうやって気持ちを切り替えましたか?
「気持ちの切り替えはすぐにできました。オープン戦での登板内容がよくなかったので、“こんなピッチングをしていたら当然だな”と思ったし、逆に、1軍に上がるときには“こんなに変わったんだぞ”という部分を見せられるようにしなきゃいけないなと考えました。今は、そのまますぐに1軍に行かずに、2軍に落ちたことで、その分、収穫もあるんじゃないのかなと考えるようにしています。もちろん、1軍にいればそれ以上の収穫もあるのかもしれないけど……」

――「BIG3」の一角、マリーンズ・唐川投手の活躍をどう見ていますか?
「元々、あの2人に特別なライバル意識を持っているわけじゃないけど、唐川のいいピッチングは自分にとって、刺激になります。と同時に、あせりが芽生えそうになるけど、そういうときには“自分は自分なんだ”と言い聞かせるようにしています」
 淡々と冷静に、そして率直に自分の言葉を探しながら質問に答える姿が印象的な取材となった。


プロ入り時に感じた
警戒心にも似た、強い「思い」


 開幕前には、「新人王候補」と称されることも多かった由規だったが、彼が直面した「プロの壁」とはどんなものだったのだろうか?
「結果ばかりを追い求めすぎていたんじゃないのかなと今では思います。“どうしても開幕1軍に行きたい”とか、“絶対に1軍のマウンドに立たなくちゃいけない”とか、“成績を残さなければならない”とか、結果ばかりを気にして、新人らしさというか、がむしゃらさがなくなっていたと思います」
 相当、自問自答を繰り返していたのだろう、ここまで一気に語った由規。
「それに、今思えば、“プロの世界はそう簡単に抑えられるものではない”という気持ちも強すぎたのかもしれません」

 プロ入りが決まって、まずは「プロ選手としての体力をつけよう」と、由規は積極的な体重増加に取り組んだ。食事量を増やし、筋トレにも熱心に励んだ結果、高校3年の夏の時点で、73キロだった体重も入寮時には77キロに。そして、プロ入り数ヵ月後には83キロまで増加した。
「体脂肪率を考えると、まだまだ人に見せられる身体じゃないし、理想の体型ではないですよ(笑)」

 そう言って笑う由規だが、体重増加は「プロとは厳しいところだ」という「思い」の強さから生まれた、彼ならではの「試み」だった。
 しかし、そこには思わぬ副作用があった。
「別に身体のキレがなくなったとか、重くてしょうがないということではないんです。ただ、体重が増えたことで、ピッチングフォームのバランスが変わったのかもしれないな……、と思うようになったんです」

 高校時代と比べて、技術的に大きく変えた部分はない。それでも、ボールのキレ、フォームのバランスはプロ入り後、どうもしっくりこない。考えられるのは、高3時からの10キロもの体重差だった。
「減量というほど、大げさなものじゃないけど、今は体重を減らそうと思っています。80キロになった今の体重を78キロぐらいにしてみたらちょうどいいんじゃないのかな?」

 また、「プロとは厳しいところだ」という、警戒心にも似た強い「思い」は、もうひとつの「試み」を生み出していた。それが、「常に正確なコントロールを身につけよう」という考えだった。しかし、これもまた由規にとって、副作用を生み出すこととなった。

「プロのバッター相手には、“コースにキッチリとボールを投げ分けなければダメだ”という思いが強すぎたのかもしれません。もちろん、正確なコントロールは大切ですけど、そう意識すればするほど、フォームがバラバラになってしまっていました。それで逆にカウントを悪くしてしまって、自分で自分を苦しめる結果になってしまったんだと思います」

 それは、「プロへの対応」を意識しすぎるあまりの副作用であり、反作用だった。しかし、その「誤解」を解くべく、意識改革を施してくれたのも、増渕をはじめとする「年の近い先輩たち」だった。
「先輩たちに言われたのは、“ど真ん中に投げたからといって必ず打たれるわけじゃない”ということ、“自分の持ち味である速い球を投げたら、ある程度甘くてもそうそう打たれない”ということ。それぐらいの強気を持つことを、教えてもらいました」

 正確なコントロールは、もちろん大切なものだ。けれども、それを過剰に意識することで、腕の振りが小さく、ボールを置きにいく状態になってしまっては、由規の持ち味である小気味のいいピッチング、キレのあるストレートの魅力は半減する。
「思えば、最初から高望みして欲張っていたんだと思います。まずは自信を持って腕を振ってストライクを取ること。そうしてカウントを有利にしていけば、ピッチングに安定感も生まれる。その上で、そこから細かいコントロールを意識すればよかったんだと思うんです」
 プロ入りして3ヵ月。少しずつ、少しずつ、由規に光明が差し込み始めている。


自分がどこまで伸びるのか、
それが楽しみで仕方がない


 来るべき日に備えて、現在、ファームで黙々と調整中の由規。7月5日現在で、8試合に登板し、5勝2敗、防御率4.78という成績を残している。
「今、5勝していますけど、その全部が全部納得できているわけじゃありません。やっぱり、勝ち運だけで1軍には上がれないので、もっとピッチングの内容を追求しなくてはいけないと思います。具体的には、まだ、調子がいいときと悪いときの波があるのが課題です。それでも、少しずつ調子が悪いなりに抑えられるようになってきているし、全部が全部悪いことばかりじゃないので、少しずつ自信はついてきています」

 これまでのピッチングの中で、自身が「最も納得のいくピッチング」と語るのが5月16日、由規の地元である仙台で行われたイーグルス戦。
ここで由規は、7回を1失点に抑える好投を見せた。この日は、自慢のストレートだけではなく、スライダーでも面白いように空振りが取れた。

「試合前に、高校時代の佐々木(順一朗・仙台育英高)監督が球場に来てくれたんですけど、“どうせやるなら楽しんでやれ”と言われました。この日は、高校時代になじみのあるグラウンドだったこともあって、プロに入って初めて、高校時代のように伸び伸びと投げられました」
 力強い言葉で、由規は現状を語った。

「試合で投げてみて、得ることはいっぱいあるし、牽制やフィールディングなど、八木沢(荘六)コーチ、山部(太)コーチに教わったことが試合でできると、自分のモノになったことが実感できてすごく嬉しいです。今は“自分がどこまで伸びるのか”が、すごく楽しみです」
 その瞬間、この日一番の笑顔が弾けた。


今は、毎日の練習の中から、
「お守り」を集めている状態です


 高校時代から、グラウンド上に限らず、日常生活においても「野球のためになることは何でも取り組んでいた」という由規。試合の立ち上がりが苦手だった彼は、「1試合」を「1日」に見立てることを思いついた。そして、苦手意識を持っていた「試合序盤」を、1日の中での「早朝」ととらえて、意識的に早起きをするように心がけた。
「今でも朝は苦手なんですけど(笑)、それでも試合の立ち上がりに対する不安はなくなりました」

 そこに、改善への確かな因果関係があるのかどうかはわからない。けれども、問題があれば、それをどうにかして改善したいと、さまざまな「試み」を企図する姿勢はプロとしての矜持、そして意識の高さを示しているのではないか。

「ちょっと下らないことかもしれないけど……」
 少しはにかんだ表情で、由規は続けた。
「自分は、練習などはキッチリやらないと気がすまない性格なんで、何事にも妥協したくないんです。今、取り組んでいるのは、たとえばダッシュ10本の練習があったとしたら、自分の場合11本やるようにしています。必ず、決められた本数よりも少しずつ多めにやるようにしているんです」

 ここまで話すと、はにかんだ表情から、さらに照れくさそうな表情に変わった。
「そうすれば、“これだけやったんだから試合でもできる”という自信も得られますよね。これは、自分にとってのお守りのようなものなんです(笑)。日ごろから、キッチリと練習をしていれば、必ずご褒美が返ってくるんじゃないか。昔から、そう考えて満足するタイプなんです(笑)」

 真夏の強い日差しが照りつける戸田グラウンドで、由規は今日も黙々と汗を流している。当初の目標だった「開幕一軍」はかなわなかったけれど、それでも、今も1軍昇格を目指す姿勢は変わらない。
「早く1軍に上がりたいという思いはずっとあります。でも、それであせってしまってはいけないし、その心のバランスが一番難しいところです」

 現在、毎日の練習において、決して妥協せず、人よりも少しでも多く汗を流すことで、由規は、近い将来のための「お守り」を日々、手にしている。
 1軍の先発投手陣が手薄な、現在のスワローズの台所事情。1つ上の先輩、増渕は7月6日に再び1軍に昇格し、勝敗はつかなかったものの、この日すぐに先発して6回を1失点に抑える好投を見せた。

 このピッチングに、1年年下の「ルーキー」が刺激を受けていないはずがない。来るべき日はもうすぐそこに。由規にとってのルーキーイヤーはまだまだこれからだ。真夏の神宮球場のマウンドが、そして多くのプロ野球ファンが由規の雄姿を待っている――。


YOSHINORI
由規(よしのり)
1989年、宮城県出身。仙台育英高−東京ヤクルトスワローズ(07年高校生ドラフト1巡目)。本名・佐藤由規。高校2年夏に甲子園デビューを果たし、昨夏は、150キロを越えるスピードボールで甲子園を大いに沸かせる。この年のドラフトでは、大阪桐蔭高の中田翔(ファイターズ)、成田高の唐川侑己(マリナーズ)とともに「BIG3」と称され、由規には、最多の5球団が競合。即戦力が期待されたものの、ルーキーイヤーの今年は開幕以来ファーム暮らしが続く。しかし現在、好成績を残しており早々の1軍昇格が期待される。




……あの夏の戸田グラウンド。
もはやキャッチボールとはいえない剛速球を投げ続ける
由規と増渕の姿は、今でも鮮明に覚えているなぁ。

今年は増渕も安定しているし、2人の雄飛のときが、
ようやく訪れたようで、とてもうれしい。


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2008年03月20日

Where is the GOD? 〜きれいな波の立つところ〜


夜中、原稿を書いていると懐かしい人から電話があった。
八丈島在住の、日本初のサーファーと呼ばれている
坂本昇氏だった。

僕はおよそ4年前、八丈島に行き、
彼に話を聞いて、彼の物語を書いた。
そろそろ60歳になるころだろう。

坂本氏の家は、実に不思議な空間だった。
海を見下ろす静かな部屋で、
彼は双眼鏡片手に波の様子を見ていた。

そして、いい波が来ると同時に彼は海へと消えていく……。
彼の話はまるで、仏法説話のようだった。
静かな空間の中で、禅問答のようなやり取りが続いた。

そんな彼の物語を久しぶりに読んでみた。
自分でも何だかとても懐かしい気分になった……。。


0407

Where is the GOD?
きれいな波の立つところ


TEXT:SHOICHI HASEGAWA

不思議な空間だった。
曇天の空の下、小雨が蕭蕭と静かに窓を伝っている。
窓の外には海が広がる。カモメが音もなく二羽、飛んでいる。
庭先の植え込みに生えているハイビスカスは鮮やかな「赤」をたたえ、
その存在を精一杯、自己主張している。

背後には間断なく流れる滝の打ちつける断崖絶壁。
滝の作り出すミストであたりには霞がかっている。
ここは八丈島。

海に向かってしつらえられた籐椅子に身をゆだね、
双眼鏡で静かな海を眺めている、仙人の如きたたずまいの男。
坂本昇が、そこにいた。

                ※

波乗りとヨーガ。
坂本を語るに欠かせないキーワード。
貧血気味で病弱だった少年が、療養のために
環境のいい養護学園に行き、
海とともに暮らし始めたのが小四のとき。
その後、湘南に移り、中一から波乗りを始めた。

そんな少年も、現在ではすでに齢54を数えた。
日本初代のプロサーファーであることや
伝説のサーフショップ『パイプラインサーフボード』の
オーナーとして活動したのも、すでに昔の話となった。
波乗りとヨーガに専念するため、八丈島に移り住んで20年になる。

「人生に無駄な時間は何もない。あっという間だ、
 本当にあっという間だよ……」

坂本は静かに何度も繰り返す。

                ※

サーフィンをしていて、何度か恍惚の瞬間を迎えたことがある。
低気圧が過ぎた朝。太陽が昇る直前、
海面が磨き上げたガラスの表面のようになる一瞬。

(鏡の中にいるのか?)

空は黒から青、そして、朱色からオレンジに変化する。
美しい瞬間。幻想の世界。ただ、そこでスーッとボードに乗るだけ。
それを何度も繰り返す。そんな瞬間を味わいたくて、
今まで波とともに生きてきた。

「陶酔だね。本当の純粋。すべてが満たされちゃう。
 自分の存在すら消えちゃう。宇宙そのものになっちゃうんだ」

30代を迎え、体力の衰えを感じ始めたころヨーガを始めた。
ヨーガを始めて、その気持ちよさにすぐに魅了された。
「ヨーガの魅力は?」と問うと、

「優しいっていうのかな、とにかく慈悲深いんだよ。
 オレたちは何のために生きるのか。何が最高のものなのか?
 物質的な世界で感じる限界というものが
 ヨーガの世界にはないんだよ。
 ヨーガのよさが身体に沁みてきたんだよな。
 その沁み方はハンパじゃない、類がないんだ」

さらに、坂本は言う。

「ヨーガを始めてますます、波乗りが気持ちよくなってきたんだ。
 タバコを吸って、暴飲暴食して、
 金勘定に追われているときにはわからなかったことが、
 ヨーガを始めてから、より深く理解でき、
 より気持ちよくなってきたんだ」

そして、

「波乗りもヨーガ本当に気持ちよくて、時間が短く感じるんだ。
 本当に気持ちよくなるとあっという間なんだ。
 これからの人生もますます早く過ぎるんだろうね。
 波乗りとヨーガ。どちらが欠けてもダメなんだ」

現在は、八丈島の神々しい大自然の中、
その時々に自分が欲することを、自然にやっている。
それが坂本にとっての、波乗りでありヨーガだ。

                ※

坂本の話は多岐に及んだ。

たとえば、脇田貴之。
世界に名高いプロサーファーであり、
坂本のヨーガの愛弟子でもある。
坂本は、「100年に一人出るか出ないかの
チューブライダー」だと脇田を評する。

現在もノースショアアタックを続けるために
坂本は脇田とともにハワイの海に入る。

「彼と一緒に海に入ると、いい気が流れるね。
 お互いにいい気を持っているというか、【和気】があるね。
 いい時間、素晴らしい時間が流れるんだよね」

たとえば、ノニ。
タヒチやインド、中国などで、古代より健康促進のために
愛用されてきたポリネシアン産の「ハーブの王様」。
その飲み方はもちろん、効用、そして、ノニを使っての
歯の磨き方まで全身を使って説明する。

たとえば、仏陀。
坂本の愛する仏陀の言葉が書かれた冊子を手渡される。
そこには、こうある。

「健康を最高の利益
 満足を最上の宝
 信頼を最高の友
 寂静を最上の楽しみとしている」


どの話題になっても、そのすべてにおいて坂本は、
身振り手振りを交えて、それこそ全身全霊で言葉を紡いだ。
その熱気は、辺りの静寂さと比べ、実に対照的だった。

                ※

そして、坂本との会話はしばしば禅問答の如き様相を呈した。

「欲から離れることを求めているうちは、離欲はかなわない」

「宇宙そのものになる瞬間がある。それは体をひとつにする
 【一体】ではなくて、溶け合う感覚、【融合】なんだよ」

「海が呼ぶ、ヨーガが呼ぶ。だから、宇宙の波動からは離れられない」

それらの仏法説話のような話を聞きながら、私は思った。

波乗りとヨーガを繰り返す毎日。
それは僧侶が朝から晩まで行を繰り返す日常と
変わらないものなのかもしれない、と。

「まるで修行僧のような日常ですね」

そう聞くと、坂本は言った。

「まだまだ、オレには、欲もあるし、怒りもあるけれども、
 僧の域にはあるのかもしれないね。
 だって、こんなところに20年以上もいるんだから(笑)。
 もしかしたら、ここがサーファーとしての
 テンプル(寺)なのかもしれないね」

それまでの熱のこもった話しぶりから
一転して、静かな口調に変化した。

「きれいな波が立つところにはきれいな気が流れる。
 マイナスイオンじゃないけど、
 波のブレイクできれいな気が起きるんだよ。
 わかる人間にしかわからないかもしれないけどね。
 でも、若いヤツらを目覚めさせたい。 波乗りもヨーガも、
 こんなに気持ちいいんだってことを知ってほしいんだ」

その話し方は、まるで何かを悟った覚者のようだった。

「やっぱり、坂本さんは神様みたいだ」

私が言うと、【神様】はきっぱりと言う。

「あなただって神様なんだよ」

「どうしてですか?」

「人は生まれながらに神であり、神として死んでいくんだから……」

いつの間にか雨はやんでいる。
カモメは、あいかわらず曇天の空を静かに飛んでいた。



坂本昇
Noboru Sakamoto Born 1949

1949年、東京都葛飾区生まれ。貧血気味で身体が弱く、小学校4年生のとき、療養のため千葉県の保田へ。そこで海に出会う。一年後、湘南に引越し、波乗りをしながら10代を過ごす。23才で、その後伝説となるサーフショップ『パイプラインサーフボード』をオープン。また、プロサーファーとして、日本のサーフィン界を牽引するも、34才のときに突然、八丈島に転居。以来、波乗りとヨーガに精進する日々を送る。



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2007年10月09日

2002.10.17、池山隆寛、引退……


古田敦也引退試合について、昨日、このブログに書いた。

そこでもちらっと書いたけれど、
こんなに多くの観客が詰め掛けたのは、
2002年10月17日の池山隆寛引退試合以来だ。

そんなことをつらつら考えていて、
ふと、思い出した。


(そういえば、池山引退の日の夜、
 神宮から会社に戻って、酔った頭で、
 短い文章を書いたな……)



当時、僕は会社勤めの編集者だった。
ちょうど入稿の時期だったのか、
校了の時期だったのかは忘れたけれど、
試合観戦後、会社に戻らねばならなかった。

池山引退試合ということで、
会社を抜け出してビールをしこたま呑み、
いやいやながら会社に戻ってきた。

でも、すぐに仕事に取り掛かる気はせず、
パソコンに向かい、短い文章を書いた。


その文章を探してみたら、簡単に見つかった。


ということで、以下に採録する。
文章の進歩がないことがわかり、赤面の至りだ……。


この一年後、僕は会社を辞めてフリーとなり、
偶然にも、最初の連載の仕事が、
池山隆寛氏のコラム原稿だった。

池山さんの自宅で、野村ノートや
現役時代のバットを見せてもらうことになるとは、
この時点では、想像すらしなかった……。



02.10

二〇〇二年十月十七日、ブンブン丸引退

「オメェーがいないとつまんねぇんだよ!」

乱暴な言葉遣いの裏にあふれる
暖かい思いが物悲しさを、さらに強くさせる。

例年なら、秋の神宮球場は肌寒く、
じっと座っているのが辛い。
しかし、この日は違った。
球場を埋め尽くした、4万5000人の熱気のせいで、
終始Tシャツで過ごせるほどだった。

前日の同カードの観衆は5000人。
実に9倍の観衆が詰めかけたことになる。

引退セレモニーは粛々と続く。
「彼」の十九年に亘る活躍をまとめた映像が
バックスクリーンに映し出されている。
静まり返った球場内に響き渡ったのが冒頭の言葉だ。


試合中から「彼」は泣いていた。
そして、観客もまた、泣いていた。

8回の第四打席で放った、左中間を破るツーベース。
一塁を回るときから右脚をひきずり、
ようやくたどり着いたセカンドベース上で膝をさする姿。

延長10回表、カープ新井貴浩の打球を
身を挺して好捕する姿。
それは、脚が万全の状態なら、
正面に回りこんで難なく捕れた当たりだった。
その姿に観客は胸を熱くする。

通路に座り込んだ人々を避け、
ようやくたどり着いたライトスタンドの最後方。
二重三重に折り重なる、頭と頭の間から、
わずかに広がるグラウンドに目をやる観客たち。
最後の「彼」の姿を目に焼き付けるために……。


カープ1点リードで迎えた延長10回裏。
ランナーが一人出ればもう一度「彼」に回る。

ワンアウト後、セーフティバントを試みる飯田哲也。
気迫溢れるヘッドスライディングでファーストに生きる。
続くバッターは稲葉篤紀。
観客の誰もが思っていたはずだ。

(ゲッツーにはなるなよ……)と。

そして、こうも思っていたはずだ。

(サヨナラホームランなんて打つなよ)とも。

そこで、稲葉の選んだ策が、飯田に続く、
セーフティバントだった。
ボールを転がしさえすれば犠牲バントになる。

一塁を目指す稲葉。
彼もまた、ヘッドスライディング。
セーフにはならなかったが、
何とか一塁に生きようとする、その心意気は
4万5000の観客の胸にしっかりと届いた。

そうして迎えた「彼」の現役最終打席。

球場の盛り上がりは最高潮を迎える。
昨年の日本シリーズ第五戦。
場所は同じ神宮球場。日本一が決定する直前。
しかし、そのときよりもこの瞬間にヒートしている大観衆。

一球目は空振り。続く二球目。
もう右脚の踏ん張りが利かないのか、
態勢を崩し倒れこむ渾身の空振り。

そして、最後の一球。

堂々と直球を投じるカープ長谷川昌幸。
同じく渾身の、そして豪快なスイングを繰り出す「彼」。
三球勝負、スイング・アウト。

通算一四四〇個目の三振。
これは、「世界の」王貞治をも上回る記録だ。

かつての代名詞「ブンブン丸」。
その名に恥じない見事なスイングだった。


この日、球場内にはビール売りがいなかった。
通路という通路をびっしりと埋め尽くした立ち見客のせいで、
自由に売り歩くことができないからだ。

売店では、弁当類はすぐに売り切れ、
カップラーメンでさえ、長い行列の果てに、
やがて、完売となった。
みんなが「彼」を見に来ていた。

レフト側、三塁側にもヤクルトファンが押しかけた。
試合終了後もスタンドを後にする者はいなかった。


「記録より記憶に残る男」
そんなフレーズを思い出す。

指揮官、若松勉は、
引退試合前日付の球団公式サイトでこう言っている。

「俺と似ているんだよ。
 自分は荒井(幸雄・現二軍打撃コーチ)に、
 イケは岩村に抜かれた。
 同じ道を歩んできたから、気持ちはわかる」


「オメェーがいないとつまんねぇんだよ」
グラウンドでは「彼」の最後の挨拶が続く。
ブンブン丸、池山隆寛。

二〇〇二年十月十七日、引退。


くしくも、かつて同じ背番号を背負った、
指揮官・若松勉が引退したのが
十三年前の同じ日のことだった……。









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2007年10月03日

ドラフト会議を作った男



いよいよ、本日(3日)、高校生ドラフトが行われる。
僕はここ数年ドラフト当日を、ある老人の許で過ごしている。

そして、和室に座り、お茶を飲みながら
「彼」と2人でドラフト会議中継を見ている。


「彼」は四十数年前、
このドラフト会議を作った男の一人だ。
理由あって、現在では、プロ野球の世界から遠く離れた。
プロ野球に対する思いも消え去ってしまった。
それでも、僕は毎年、無理を言って、
ドラフト会議中継を一緒に見させてもらっている。


テレビを見ながら、彼はポツリポツリと、
当時のプロ野球を語ってくれる。
コミッショナー事務局員として、
さまざまなプロ野球のシステム作りを成し遂げた、
彼の苦労話は、実に楽しい。


彼の手元にある貴重な資料を見せてもらいながら、
僕は当時のプロ野球に思いを馳せる。

酒好きの僕を気遣って、おいしい肴とともに、
ビールや日本酒を用意してくれてもいる。

心地よい酔いと、プロ野球の黄金期の物語。
目の前に映し出されている「ドラフト会議中継」を肴に、
「彼」と話し合う、至高のひととき――。


残念ながら、本日は取材が「3本!」という、
僕にしては久々の過密スケジュールなので、
彼のところには行けない。

――でも、今晩、
久々に電話してみようと思う。



そんな「彼」のことを書いた文章が、
『Number Web』の【スタジアムの内と外】第5回
にアップされているけれど、ここに採録してみたい。

これは、3年前の原稿だけれど、
状況は今も、何ひとつ変わっていない……。



04.12


ドラフト会議を作った男

うららかな日差しの、秋の北鎌倉。
緑豊かな森林と静かに流れる小川が
心地よい閑静な住宅街の一角。

男は自室でテレビ中継を見つめていた。
この日、40回目のドラフト会議が行われていた。


――40回目のドラフト。


つまり、もう40年も前のことになる。
当時、男はプロ野球コミッショナー事務局の職員だった。
プロ野球の契約金の高騰とともに、
選手を取り巻く「大人」たちの暗躍、
裏でうごめく無数の札ビラが社会問題となった。

このころ、実在の選手をモチーフに、
どす黒い人間の欲望を描く
『あなた買います』なる映画が生まれた。


そんなころ。
男はドラフト会議制定の準備に関わっていた。
これには、契約金の高騰抑止のほかにも、
戦力の均衡化を図る狙いもあった。

各球団との調整や何度も試行錯誤を繰り返し、
1965(昭和40)年11月17日、
ようやく実現に至った第1回ドラフト。

そして、それからおよそ40年経った同日。
今年もまたドラフト会議が行われている。


第1回ドラフトで指名された主だった選手は、
通算317勝の鈴木啓示(近鉄)や
後にタイガースの監督を務めることになる藤田平(阪神)、
ホームラン王、打点王ともに3回獲得した長池徳二(阪急)、
そして現ジャイアンツ監督、堀内恒夫らがいる。


男は黙ってテレビ画面を見つめている。
その手元には、最新の「野球協約」が置かれている。

モニターの中では、野間口貴彦(シダックス)、
那須野巧(日大)、ダルビッシュ有(東北高)らが
続々と指名されている。
その中には、楽天に指名された
一場靖弘(明大)の名前もあった。


「裏金問題を起こさないように、公平なシステム作りを、
という思いでドラフト会議が生まれたのに……
でも、逆指名制度に自由獲得枠、
そんなシステムが導入されれば、
再び問題が起こるのは自明のことです……」


男は静かにコーヒーカップを手にした。


コミッショナー事務局を
定年で退局してから、すでに十数年。

70歳を過ぎた今、「プロ野球の危機」を
目の当たりにするとは思わなかった。


「人身売買」のそしりを受けながら、
何とか実現にこぎつけたドラフト会議とは
一体なんだったのか?

抽選用のクジや資料作りに神経をすり減らし、
指名が予想される選手のプロフィールを何度も確認し、
直前には決まって寝つけない夜を過ごした
あのドラフト会議とは一体なんだったのか?


「ドラフト会議を作った男」。


私がそう言うと本人は断固として否定する。


「私はただ、事務局員として
与えられた仕事をしただけです。
あくまでも組織を挙げて成立させたのであって、
私は事務局員として自分の職務を全うしただけなんです」


第1回ドラフト会議の開催に携わった人は、
ほとんどの者が鬼籍に入った。

制定時の理念を知る者も今や少ない。
さて、この先のドラフトはどうなっていくのだろう?


「事前に談合のようなことが行われるのなら、
ドラフトはもういりませんよ。
でも、もし、残すのならば、選手会の言う
ウェーバー方式の導入がいちばんいいんでしょうね……」


画面には、昨年にひき続き、
今年も一度も使われることのなかった、
真っ白い抽選箱が映し出されていた。





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2007年08月04日

渥美清が逝って、11年経った……

1996年8月4日――。
映画『男はつらいよ』で車寅次郎を演じた、渥美清が逝った。

僕は、寅さんに何度も何度も笑わされ、
癒され、勇気づけられて生きてきた。

渥美清が死んだと聞き、
僕は、気がついたら松竹本社にいた。

芸能誌でもないし、速報性の高い
ニュース雑誌の編集者でもないのに、

「松竹に行けば、何とかなるだろう」

そう考えたのだった。
今から思えば、「何とかなる」というのも妙な理屈だけれど、
いてもたってもいられずに、
仕事をサボって、松竹に向かったのだった。


……あれから11年が経った。


今日、8月4日は、渥美清こと田所康雄の命日である。
以下の文章は昨年の今頃書いたものである。



06.08



東京・新宿にある「田所康雄」の墓標。
そこには、「渥美清」の名はない。
もちろん「車寅次郎」の文字もない。

渥美清が亡くなって10年が経った。
それでも、渥美清=車寅次郎のイメージは、
今なお、多くの人に生き続けている。
いつでもどこでも、明るくドジで人情に厚い寅さん。

実際の渥美もそのイメージのままだった。
いつも笑顔で、すれ違うお婆ちゃんに
「いつまでも達者でね」と気さくに声をかける。
撮影中は共演者を笑わせ、
ロケ現場では見学に訪れた地元の人と笑顔で交流をする。
渥美清にとっても、車寅次郎はイコールの存在だった。

そこには、田所康雄の姿は微塵もない。
40年来の知人である黒柳徹子、関敬六、
さらには山田洋次監督でさえ、
渥美の自宅の場所は知らず、
家族と会ったことすらなかった。

26年の歴史を持つ『男はつらいよ』。
最後のロケ地となった加計呂間島で
渥美は遠くを見つめながら、その理由を語る。
      
「役者は、その人がいくつであるとか、
どこどこの出身であるとか、そんなことは
わかんないほうがいいんじゃないかな」と。

続けて、「男だか女だかわかんないぐらいが、
かえって面白いじゃない」と静かに笑った。 

家族を守るため。
そして、役者としての謎を残すために、
田所の存在を隠し通した。
その代わり、渥美清は車寅次郎の
イメージを大切に守り続けた。

……それでも、シリーズ最終作の撮影現場に、
渥美の笑顔はなかった。

「立っているのが精一杯……」

このとき肉体は、すでにガンに蝕まれていた。
それでも渥美は、見事に『男はつらいよ』
第48作を完成させた。
渥美清は、最後まで車寅次郎を完璧に演じ切った。  

「死んでいくのは田所であって渥美清でも、
“寅”でもない。絶対に“寅”の墓は作るな」

それが田所康雄の遺言だった。
命を賭して、渥美清を、そして車寅次郎を守った。
それが、田所康雄が、初めて見せた静かな主張だった。





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2007年06月16日

須藤元気の長い一日


先日、触れたように7月に須藤元気のDVDが発売される。
今回のDVDは彼の「格闘家」としての側面に
スポットを当てたもので、多くの試合が収録されている。

その制作のお手伝いをしたこともあって、
僕自身、最近彼の試合のビデオを見ることが多い。

いろいろな名シーンが思い出されるが、
僕にとって、忘れられないのは、
2004年4月2日にラスベガスで行われた、
マイク・ブラウンとの一戦だ。

僕はこの試合をラスベガスで見た。
その試合当日は朝から元気クンと一緒だった。
その顛末を書いたのが、下の文章だ。

この日、彼は「引退後の生活」を饒舌に語った。
今から思えば、そのほとんどが実現していることに、
改めて驚かされる思いだ……。


04.05


須藤元気の長い一日

TEXT:SHOICHI HASEGAWA

プロローグ
広大な砂漠に突如として現れた、大歓楽都市・ラスベガス。人口甘味料と人口着色料を過剰なまでに散りばめたような、このギャンブル・タウンで、2004年4月2日、須藤元気はオクタゴンの中にその身を預けた。金網の中で繰り広げられるUFCのラスベガス大会、須藤元気対マイク・ブラウン。4月2日、それは須藤元気にとって、実に長い長い一日となった……。

7:00
元気の宿泊するホテル「マンダレイベイ」のフロントで待ち合わせをする。セコンド二人を伴い、ここ数日のいつものコースをいつものように散歩に向かう。しとしとと降る生憎の雨のため、ホテル間を結ぶトラムと呼ばれるモノレールに乗り、終点のホテル「エクスカリバー」で下車。過度に華美な周囲の街並みとどんよりと暗く澱んだ空が実に対照的だ。

7:15
小雨の中、傘もささずに、いつものコースを歩き、いつものスタバに入る。階下を見下ろせる奥まった一角に陣取り、これもいつものように、須藤元気は、ゆったりとソファに身を沈める。そして、セコンド陣と、とりとめのない話に終始する。試合のシミュレーションは前日までに十分してある。今は、とにかく頭から「闘い」の二文字を消し去ることだ。試合開始までには、まだまだ時間がある……。

9:10
「格闘家を辞めたら何をするか?」で話が盛り上がる。すでに、格闘家としての終焉をイメージしている須藤元気にとって、それは夢と希望にあふれた未知なる世界への新しい探検なのだろう。実に具体的に、そしてビビッドにその構想を語る。「今しかできないこと、今のこの年だからできることをしたいんです」、熱を帯びた力強い口調が印象的だ。わずか8時間後に闘いを控えている男だとは、私にはとても思えなかった。

10:05
スタバでの談笑は実に3時間にも及んだ。空はあいかわらずどんよりとしているが、雨は小降りになっている。来た道と同じコースでホテルに戻る。「これからちょっとだけ、身体を休めます」。元気は静かにそう語ってエレベーターへと乗り込んだ。遠くで大量のコインを吐き出す、スロットマシンの音が絶え間なく聞こえてきている。

14:00
私は、一足先に、試合会場であるマンダレイベイのイベンツセンターに入る。前日に下見をしておいた控室。扉には「GENKI SUDO」の文字が。中に入ると、そこは物音ひとつしない静寂に包まれている。部屋の大半を占めるブルーのマットが静かにその存在を主張している。主なき部屋。1時間後に、この部屋の主役はやってくる。試合まであと3時間。

14:58
須藤元気がセコンド陣とともに、控室にやってくる。その表情は険しく、直後に闘いを控えた者のそれに変貌を遂げている。荷物を置くとすぐにブルーのマットに寝転がる。そして、三人がかりでストレッチを始めた。静かだった会場にもにわかに活気がみなぎり、大きな荷物を運ぶ台車の音、大声で何やらがなりたてる英語の叫び声が聞こえてくる。

15:40
入念なストレッチのあと、元気を指導してきた、木口道場の木口宣昭とともにスパーリングを始める。組み合った相手の腹に、ヒザを打ち込む動作を何度も何度も繰り返している。「いい感じですね、昨日、一回アガって逆によかったですね」。私は、前日の軽量で、これまでにないほどピリピリしていた元気の顔がふと頭をよぎった。

16:00
ミットを使って、パンチとキックの練習を始める。「右を打たなきゃやられないね」と言いながら元気は、左のパンチとキックを、一つ一つ確かめるように丁寧に繰り出す。そして、実戦形式の5分1ラウンドのスパーリングを始める。「ボディパンチっていうのは効くかもな」、「サイドからボディだな」、「左で打てば(相手の)レバーだな」。一つ一つの動きを口に出して、確認を繰り返す元気。試合開始まであと1時間あまり。

16:18
大会公認のオフィシャルカメラマンがやってくる。試合直前と直後の写真を撮影することになっているという。それを聞いた元気は少し、困惑の表情を浮かべた。「試合後ならいいけど、今はちょっと…… 断っちゃダメですか?」。しかし、2〜3分で済むとの話で元気は撮影に応じた。

16:30
Tシャツを着替え、トイレで用を足し、元気は試合用のウェアを身にまとう。場内も開場し、観客たちの声や足音が控室にも聞こえてくる。試合開始の息吹がそこかしこにあふれてきている。

16:55
レフェリーが控室にやってきて、反則技の説明を始める。それを終えると、元気は酸素を吸入しながら、小さくつぶやく。「あと、1時間後には終わってるんだな」、「アウェイでやってるんだから、次、日本でやるのはラクだよな」。それは自分に言い聞かせるように、何度も何度も続いた。

17:00
場内が暗転し、七色の光が客席を縦横無尽に駆け巡っている。それを映し出す、控室のモニターを元気は何も言わずに見つめている。時折、目を閉じ、考え込むそぶりを見せる。そして、目を開き、静かに話し始める。「幸せですね。ケンカしてお金がもらえるんだから。変な仕事ですよ」。自嘲気味に微笑んだ、その目は決して笑っていなかった……。

17:14
進行係の大柄な黒人が慌しく、控室に入ってきて大声で叫ぶ。「One minute!」。さぁ、いよいよ出番だ。「ヨシ!」とも「オシッ!」とも聞こえるようなことを叫ぶと元気は勢いよく立ち上がった。控室に残った私は、大きくなる観客の歓声と小さくなる元気の背中とを、ただただ感じていた。

17:23
先に入ったマイク・ブラウンの待つオクタゴンへ元気もリングイン。歓声がひときわ大きくなる。静かに両手を合わせている元気。闘う者の殺気を漲らせながらも、その表情はなぜかとても穏やかに見えた。この日の朝、元気が話していた言葉がよぎる。「殴り合いだけで勝負が決まる闘い方はしたくない」。どんな闘いが、これから繰り広げられるのか?

17:26
静かに試合がスタートした。金網に押し込められ、左足をとられる。その後、両者グラウンドに引きずり倒し、倒される。しかし、そこからは元気のペースだった。ガード・ポジション、三角絞め、腕ひしぎ、と流麗なリズムで、1R3分31秒・腕ひしぎ三角固めで勝利。試合前の発言通り、力まかせではない、技の勝利。極めて勝つ、という元気の理想通りの勝利だった。

17:30
対戦相手のマイク・ブラウンに、そして四方の観客に、合掌をしながら丁寧にお辞儀を繰り返す元気。そして、彼を支援するガルシア・マルケスによる、手作りの旗が元気の手で観客にアピールされた。国連の全加盟国の国旗があしらわれたその大きな旗には元気の生涯のテーマである『WE ARE ALL ONE』の文字が大きく刺繍されていた。

17:35
控室に戻ってきた元気の顔は晴れやかだった。「今回はちょっとピリピリしすぎました。これで(前回UFCで負けた)トラウマが消えました」と言いシャワーを浴びる。セコンドの一人が「五日間のケアが大変でした。もう自由にさせてもらいます」と私にいたずらっぽく笑う。

18:03
大会に出場する他の国の選手が元気を祝福しにやってくる。各国の国旗があしらわれた元気の旗を見て、ベラルーシの選手が「うちの国の旗がない」と言うと、元気はそんなはずはないという風に旗を広げながらも、“If no flag,I will make it again.”(もしなかったら、もう一度作り直します)と丁寧に答えている。実際は、ベラルーシの国旗もあり事なきを得たが、元気の誠実な人柄がその一瞬に実によく表れていた。

18:08
「じゃあ、試合でも見に行こうか」とセコンド陣と連れ立って、元気は試合会場に再び戻る。「じゃあ、また後で会いましょう」と立ち去る元気の背中は、1時間前に見た背中と同一人物のそれとは思えないほど実に軽やかだった。

エピローグ
全試合終了後、出場選手立会いの記者会見が開かれた。その場で、関節技で勝利を収めた者だけに贈られる『TAP OUT』賞をこの日ただ一人受賞する。そして、会見終了後、控室に戻ると、『WE ARE ALL ONE』の旗が何者かに盗まれていることが判明する。この長い一日の最後に、本当に残念そうに「きちんとしまわなきゃダメでしたね……」と肩を落とす、須藤元気。しかし、外国人スタッフに囲まれ、すべての面において勝手の違うアウェイで、元気は実に見事な勝利を収めたのだ。それで十分ではないか。旗はまた作ればいいのだ。

――そして、23:10。
スタッフたちと別れる。こうして、須藤元気の長い長い一日が終わった。









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2007年04月28日

ひとり大空に、叫ぶ 〜須藤元気の3年間〜


ここ数日の間、久しぶりに須藤元気氏の取材をした。
振り返れば、ここ4年の間、食事をしながらだったり、
練習の合間だったり、ときには旅先だったり、
断続的に彼に話を聞き続けている。

人は日々、成長する。
彼の中で、変わったこともあれば、
まったく変わらないものもある。

ここ数日で聞いた彼の話と、以下に掲載する
2年半ほど前の文章。
まったく揺るぎない彼の中の軸と微妙な変化。

僕自身、そんなものを感じながら、
この文章を読み返してみた。


04.09


ひとり大空に、叫ぶ
〜須藤元気の3年間〜

TEXT:SHOICHI HASEGAWA

「引退(やめ)なくちゃいけないかもな……」
自宅で本を読んでいるとき、
友だちからのメールで、初めて「それ」を知った。

2001.9.11――。

試合を一週間後に控えた須藤元気は、次にこう思った。
「ニューヨークに行かなければ……」
ニューヨークを未曾有のパニックに陥れた
同時多発テロから、3年の月日が経とうとしている。

               ※

「憎しみが憎しみを生む世界を終わらせたいという、
自分の中の潜在意識が目覚めたんですかね。
決して、そんな世界なんか望んではいないのに、
ひょっとしたら自分のやっている格闘技というものが、
戦いを助長しているんじゃないのかな、そう思えたんです。
だから自分は引退するべきじゃないのかなって。

でも、今からから思えば、それは辛い格闘技から逃げ出すための
体のいい言い訳だったのかもしれませんね。
格闘家が戦いの無意味さをアピールすることこそ、
意味があるんだと今なら思えるし、格闘技というものは、
人間の闘争本能を解消するためのスポーツなんだって、
今では、正当化できるから……」

               ※

この3年間で、格闘技を取り巻く事情は大きく変った。
立ち技系のブームを築いてきた【K−1】に加え、
寝技も含めた総合格闘技【PRIDE】も大人気を博している。
03年の大晦日には、民放3局で、
別々の大会が生中継されるという過熱ぶりだ。

こうした「格闘技ブーム」の中で、
当然、須藤元気の状況も大きく変わった。
その派手なパフォーマンスと卓越した試合運びで、
会場を盛り上げる男として、
今やビックマッチには欠かせない格闘家の一人となった。

03年の大晦日には、体重差110kgのバター・ビーンを
理詰めで撃破し、年が明けた04年には、
4月にアメリカ・ラスベガスでアウェイでの戦いに
動じることなく勝利を収め、5月には、
格闘技ブームの牽引車でもあった、
あのグレイシー一族のホイラー・グレイシーを
完膚なきまでに叩き潰した。

格闘家として、脂が乗っている時期に、今、元気はある。

               ※

「自分でも成長したなと思いますね。
すべてにおいて淡々とこなせるようになってきました。
勝っても、『ワーッ』って喜べなくなったし、
興奮もしなくなりました。前回のホイラー戦も、
『あぁ、勝った。あっ、目の前にホイス(・グレイシー)がいる。
じゃぁ、対戦表明をしよう』って冷静に考えていましたからね。

何で、そうなったか? 

そうですね、闘いって儚いものなんですよね。
勝ち負けってそのときだけのものなんですよ。
格闘家だっていくら一世を風靡したとしても、
一年間も試合をしないとすぐに忘れ去られてしまいますよ。
『平家物語』みたいですよね。
驕れるものは久しからず、盛者必衰の理ですよね……」

               ※

これまでに何度か紹介したが、
須藤元気は「自分はメッセンジャーとして生まれてきた」と話す。
世間の人に伝えたいものがあるから生まれてきた。
その伝えたい思いこそが『WE ARE ALL ONE』だ。

しかし、同時多発テロを端緒に、アメリカはイラクへ軍隊を派遣した。
さらに、それに追随するかのごとく日本からも自衛隊が派兵された。
この三年間の間に、争いが争いを生み、
多くの人が血を流し、命を落とし続けている。
世の中の状況はちっとも、『WE ARE ALL ONE』ではない。

               ※

「自分の無力さはもちろん感じます。だけど、だからと言って、
今すぐに格闘家を引退しようとは思わないです。
『WE ARE ALL ONE』という考えも、
何としてでも強く訴えていこうとも思っていないです。
【反戦】を強く言えば言うほど、逆に戦争をやりたがる人が
出てくるんじゃないかなという気がするんです。

男がいて女が存在するように、
右があって初めて左が存在するように、
【反対】を強く訴えれば、相手もまた力をつける。
ただ否定するだけだと当然相手も反発しますよね。
『そういう考え方もありますね』ってひと言、言えば、
みんな柔らかくなれると思うんですけどね」

               ※

無力かもしれない。それでも言い続けることしかできないし、
継続することで意味を持つこともきっとある。
だからこそ、須藤元気は
『WE ARE ALL ONE』を唱え続ける。
格闘家としての絶頂期を迎えつつある今、
メッセンジャーとしての歩みを
本格的に始める時期にさしかかっている。

取材の間、ちょうど公開を控えていた、
反ブッシュ映画とも言うべき、
マイケル・ムーア監督の『華氏911』に話が及んだ。

『WE ARE ALL ONE』を信奉する元気は、
ブッシュでさえも世界のために必要な存在であると語った。

               ※

「マイケル・ムーアのやり方は自分も嫌いじゃないけど、
ああいう形だと真の革命はならないんじゃないかな……

もしかしたら、ブッシュさんだって、
今のシステムを壊すための悪役として
出てきてくれたのかもしれないし……。

彼は彼で悪役としてやっていて、
でも、自分では悪だとは思っていなくて、
それを支持する人が半分ぐらいいて……。

問題はそこで人類がどんな選択をするかですよね。
ヒトラーの時は誰も止められなかった。
だからこそ、今、人類はどんな選択をするかが
問われているように思えて仕方がないんです。

でも、『WE ARE ALL ONE』という
メッセージがあれば何かが変わるんじゃないか。
いい方向に向かせることが
僕の使命なんだと思っています」

               ※

それにしても、と改めて思う。
これが今、絶頂期を迎えている格闘家の言葉なのか、と。

その言葉は【最強】を希求し、
【勝利】を求める者のそれではなく、
【平和】を希求し、【一体】を求める者の物言いだった。

それは、まるで思想家であり、平和主義者の使う言葉だ。

取材の三日前にバイクを盗まれたという須藤元気。
しかし、彼は平然と、こう答えた。

「それも必然なんでしょうね。別に動揺はしていませんよ」

これから元気はどこに行くのか? 
その崇高な理想は人々の胸にどう届くのか? 
人類は平和を損なうことはないのか?

               ※

「今は、あのとき辞めないでよかった、
とすら思わないですね。
世の中はすべて必然の流れだと思っているんで、
あのときはやはり、辞めない流れだったんだと思います。

今はただ、『WE ARE ALL ONE』って
大空に向かって叫んでいる状態です。
そうするとチューニングが合った人が
次第に集まってくると思うんです。

一気にみんなにこの思いを広めるんじゃなく、
少しずつ知ってもらう、そのプロセスをも
楽しみたいと今は思っているんです」




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2007年04月14日

REBORN 〜日本のデレク・ハインド〜


「交通事故で右目を失ったサーファーがいる」と聞いた。
茅ヶ崎の静かでオシャレなカフェで本人に会った。
壮絶な事故の話と、そこから海に戻るまでの力強い話。
しばし、言葉を失いながら、僕は黙って聞いていた。

おだやかな天気、そして静かな波の音。
あの光景は、今でもとても印象に残っている。



04.09

REBORN
〜日本のデレク・ハインド〜

TEXT:SHOICHI HASEGAWA

記憶がなかった。
02年2月26日、午前5時45分から
およそ三日間、意識がなかった。

念願だった古着ショップ開店まで
あと数ヶ月という時期、
自転車に乗っていたTAKAはトラックに衝突した。
頭蓋骨折。眼球破裂。脳挫傷。
事故の代償はあまりにも大きかった。
TAKAは右目の視力と右耳の聴力を失った。

事故から三日後、意識を取り戻した。
けれども状況はうまくつかめなかった。
ただ、起き上がろうとしても
まったく言うことを利かない体に
なっていることはすぐにわかった。

「もうサーフィンも終わったな……」

サーフィンを中心にして生きてきた自分から
サーフィンを取ったら何が残るというのだろう。
生きる意味って何だろう。

サーファー仲間が次々と見舞いに来てくれた。
TAKAに元気と勇気を与えようと、
片脚のサーファーの話、
隻腕のサーファーの話をみんながしてくれた。

そして、TAKAはその男の名を初めて聞いた。
DEREK HYND。
かつてのトッププロサーファーにして、
サーフボードが目につき刺さるという事故で
片目を失った伝説の男である。

        ※

TAKAの入院生活は三ヶ月近く続いた。
病棟の九階から飛び降りようか
とも思ったこともある。

しかし、そのたびに呪文のように
デレクの名をつぶやき続けた。

平衡感覚をつかさどる耳の損傷のため、
また、片目による遠近感の違和のため、
リハビリのために病院の廊下を歩いていても
右肩がすぐに壁にぶつかってしまう。

気持ちだけは萎えないように
自らを奮い立たせていた。

しかし、思うようにいかない現実の前に、
途方もない無力感を感じることもしばしばだった。

そのたびに、知人がくれた
デレク・ハインドのビデオを見直した。
ビデオの中のデレクのライドは美しかった。
人はここまで強く、美しくなれるのか。

そうして、三ヵ月後、5月になって
ようやくTAKAは退院した。

しかし、退院はしてみたものの、
鬱屈とした思いが晴れることはなかった。

オープン間近だった「ビーチサイドの古着屋」という
コンセプトのショップも一時棚上げされていた。
海に入ることもできない。

自宅リハビリを続けていたある日、
TAKAは事故以来、まったく手をつけずにいた
パソコンを久しぶりに立ち上げた。

メールチェックをしてみると、そのメールがあった。
差出人はデレク・ハインド、その人だった。

        ※

【笑える】

メールの書き出しには、そうあった。

【オレのときとまったく同じだ。
すぐに君は海に戻るだろう。
でも、あまりのふがいなさに、
かなり落ち込むだろう……】

その文章は、海に出たくて、出たくて
しょうがなかったTAKAの琴線に触れた。
文章はなおも続く。

【……でも、心配するな。
人間はうまくできている。
目を一つ失っても、
もう一つの目がものすごく発達する。
繰り返しやっているうちに、
すぐに新しい感覚になじんでくる。
オレは半年後にはコンテストに復帰した。
お前も大丈夫だよ。
楽しんでサーフィンを続けてみなよ……】

かつて、ショップのバイヤー時代に知り合った
カリフォルニアのシェイパーが事故を聞きつけ、
デレクにTAKAのメールアドレスを
知らせたのだということは後で知った。

入院中、退院後の心の支えだった
デレクからの激励のメール。
それは改めて、TAKAに生きる力を与えた。

そして、8月。
事故後、初めてTAKAは海に入った。

        ※

曇り時々晴れの夏の茅ヶ崎。
胸ぐらいの優しい波に悪戦苦闘をしながら、
TAKAは懐かしい感触に身をゆだねていた。
平日の海はビジターもいなく、
顔なじみのローカルたちがいるだけだった。

デレクの言う通りだった。
今まで乗れていた何でもない波にとまどった。
でも、デレクの言うように「ふがいなさ」は感じなかった。

ただただ、塩水の感触がたまらなく懐かしく優しかった。
気持ちよさとうれしさとで涙が出てきた。
サングラスをしていてよかった、とTAKAは思った。

沖では、顔なじみのローカルたちが
次々と声をかけてくれた。

「お帰り!」

波には全然乗れなかったけれど、
そんなことはどうでもいいことだった。

高校卒業後、単身サンディエゴに渡り、
そこで初めてサーフィンに出会った。
西海岸のまばゆい陽光の中で、颯爽と
波を乗りこなす金髪の兄ちゃんたちにすぐに魅了された。

以来、海から離れたことはなかった。
そして、事故というアクシデントを乗り越え、
再び海に帰ってきた。それだけでよかった。
仲間たちの歓迎ぶりがただただうれしかった。

TAKAは生まれ変わって帰ってきた。

        ※

その後、念願かなって03年5月に茅ヶ崎に
『STONE FREE』を開店した。
古着に交じって、店の奥には
サーフボードが並んでいる。

当初、考えていた通り
「ビーチサイドの古着屋」という店構えになった。

海にも出続けている。
事故前を100だとしたら、今はまだ70だけれども、
事故直後は10程度だったことを考えれば
順調な回復を見せている。

「新しい体になってからの波乗りは
まだ確立されていない」というTAKAだが、
6・1、もしくは2だったボードを若干長くして、
6フィート8インチに変えてみた。
試行錯誤はまだまだ続いている。

「日本でいちばん尊敬される片目サーファーになりたい」

TAKAは笑う。
でも、片目だから偉いのだとか、
すごいのだとかは言われたくない。

ただ、あるがままの体であるがままに
波に乗れればいいのだと考えている。
TAKAがデレク・ハインドに勇気づけられたように、
今度はTAKAの存在によって
元気づけられる少年もいることだろう。

そのためにも今日もTAKAは海に出る。

『STONE FREE』の店先の
ボードが潮風に揺れている。
そこには、
「まことに勝手ながら、波があるので遊んでます」
と書かれていた。




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2007年04月01日

Like A Burnning Cigarette

2004.08

Like A Burnning Cigarette
〜オレはどこに行くのだろう〜


TEXT:SHOICHI HASEGAWA


紫煙がたなびく。
ケイソンはタバコに火をつけ、
それを一口大きく吸い込むと同時に、
一曲目の演奏を唐突に始めた。

渋谷の一角。薄暗いバーの片隅で、
生ギター一本で野性的なヴォーカルで歌い始める。
観客の視線と気が一瞬にしてケイソンに注がれる。

「オレはどこに行くのだろう……」
ケイソンは歌う。

          ※

チャルメラの音色が好きだった。
「あっ、ラーメン屋さんだ!」
少年の心は沸き立った。
あわてて駆けつける。子どもの目線で屋台を見上げると、
暖簾の奥にはオヤジがいて、
その後ろには赤やオレンジや茜色の夕焼け空が
絶妙なグラデーションをたたえ、全面に広がっていた。

ラーメンを作るオヤジの姿がカッコイイと思った。
「大人になったら、屋台のラーメン屋さんになるんだ」
そんな夢を抱いていた少年は高校を出ると
調理師専門学校に通った。
そして、卒業と同時にレストランに修行に出た。
チャルメラを吹くことはないけれど、
着実に飲食業への道を歩みだしたかのように見えた。

しかし、「何か」が違った。
半年足らずでそのレストランを辞めた。
当てもなくブラブラと過ごした。
そして、ふと立ち寄ったバーに住み込み、
厨房の手伝いをして過ごした……。

          ※

ケイソンは歌い続ける。
野性味あふれるダイナミックなヴォーカルは
マイクもPAも必要としない。
手書きの文字が温かみを持つように、
機械を通さない生声もまた
人の心の奥底に深く染み渡る。

薄暗い店内の柔らかく暖かい光の中、
歌い続けるケイソン。
カウンターに置かれたタバコは、
その後一回も吸われることはない。
原型を損なうことなく、
煙とともに一本の棒状の灰になっていく。

「オレはどこに行くのだろう……」
ケイソンは歌う。

          ※

住み込みで働いていたバーには
音楽好きの人間が多く集まっていた。

中学二年生のころからギターを
手にしてきた少年にとって、
気のいい仲間たちとうまい酒を呑んで、
興が乗ればギターを手にして歌う毎日は
それはたまらないものだった。

彼の噂を聞きつけたミュージシャンが
彼の元に集い、バンドを組んだ。
仲間同士で酒を呑み、歌を歌い、
さらに楽しい毎日がつづいた。

ストリートで歌うのも好きだった。
投げ銭で金が入るのもうれしかったし、
泣きながら自分の歌を聞いてくれる女の子を
見るのも面白かった。酔っ払いのサラリーマンと
一緒に同じく酔っ払っている自分。
ヤクザでも神父でも「人間は人間」
なんだと感じる瞬間。客と一体になれるとき。
みんなが同じ「何か」を共有する感覚。

そんな不思議な瞬間を、
音楽を通じて何度も感じることができた。
やがて、うわさを聞きつけた音楽関係者がやってきた。
少年はプロのミュージシャンになり、
ケイソンと名乗った。

          ※

趣味は「サーフィン&トリップ」。
人生の目的は「波乗りをしながら
旅をして歌を歌うこと」と笑うケイソン。

ギター一本あれば生きていける。
気の向くままに旅をして、波乗りをしながら、
その土地の空気を吸い、その土地の名産を食べ、
その土地の酒を呑む。
「たぶん波乗りの感覚と弾き語りの感覚が
似てるんだよね。開放されたいっていうか。
オレは自由に旅をして波乗りして、
自由に歌って自分を開放していきたい」

旅先でふとした瞬間によぎる、
そのときの気分にピッタリと合った言葉。
シンプルだけどしっかりと自分の身の丈に合った言葉。
ネガティブもポジティブもすべてない交ぜになった
等身大の言葉。そうした言葉の数々を紡ぎながら歌を作っている。

「昔から放浪癖があってね。仲間とにぎやかなのも好きだし、
一人でたそがれちゃうのも意外と好きなんだよね」

トラベリング・バンド。放浪詩人。
その言葉や音楽はひとところに定住していたのでは
決して生まれないものだろう。

「今、事務所から離れてフリーで活動を始めてて。
周りの意見を聞きながら音楽を作るんじゃなく、
一から自分のやりたい音楽を追求して、全国を回って歌っていきたい」

そして、ケイソンはこの日も、渋谷のバーで、
酒を呑みながら歌を歌っている。

          ※

カウンターに置かれたままのタバコは
さらに灰となり燃え続けている。
まっすぐに伸びた煙がときどき、
ギターをかき鳴らすケイソンの動きに合わせて、静かに揺れる。

もし、人生が一本のタバコだとしたら。
火をつけ、やがて、すべてが灰になる。
増えゆく灰と燃えゆくタバコの葉。
人は死へ向かって生き続けるのか?
旅人は何を求めて旅を続けるのだろう? 
観客が静かに耳を傾ける中、
ケイソンのボルテージも上がってきた。

「オレはどこへ行くのだろう?」
ケイソンは切ない声で歌う。

          ※

少年があこがれていたのは、
ラーメン屋ではなく、屋台だったのだろう。
ひとところにとどまらず、好きなときに好きな場所に移動できる。
そんな自由さにあこがれたのだ。
彼が求めていたのは飲食業で職を見つけることではなく、
開放感を味わえる「何か」を探し出すことだった。

ケイソンにとってそれは「旅」であり
「サーフィン」であり、「歌うこと」だった。

将来の夢は?という問いに対して、
ケイソンは散々悩んでこう答えた。

「うーん、もちろんいろんないい曲を作っていきたいけど……、
あっ、それよりも今の状態、感覚、体力、楽しみ、
そういったものをずっとキープしていけたらいいな。
この楽しい感覚を、ずっとね」

照れくさそうにケイソンは笑った。

          ※

「急ぐわけじゃないから」
このフレーズを何度も繰り返し、
ようやく一曲目を歌い終えたケイソン。
観客の拍手を聞きながら、
ケイソンはようやく燃え尽きそうなタバコを手に取り、
一息、大きく吸い込み、大きく煙を吐き出した。

「じゃあ、次の曲は……」

再びタバコを灰皿に置き、ケイソンは二曲目を歌い始めた。






shozf5 at 16:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
PROFILE
SHOICHI HASEGAWA 
1970年5月13日・東京生まれ。
ノンフィクション・ライター
日々、旅をして、人に出会い、
話を聞き、それを文章にする。
そんな日々の雑感です。
長文になると思います。

ちなみに、上の写真は、
モハメド・アリ@北朝鮮です!
(07年3月1日付参照のこと・笑)
shozf5@gmail.com


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