2012年06月20日

15歳のプロ野球選手 〜太田浩喜の青春〜 その2

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昨日書いた15歳のプロ野球選手に、思わぬ反響があった。
「もう少し、詳細を教えてほしい」との声が多かったので続きを。


資金難にあえいでいたクラウンライターライオンズが、
「金がないなら有望選手は自ら作ろう」という目的の下、
当時15歳、中学3年生だった少年2人を獲得。
「練習生」という名目の下、英才教育を施そうとした。

それが、1977年秋のことだった。

しかし、チーム運営は、すでに深刻な状態にあった。
何とか78年シーズンは持ちこたえたものの、
その年のオフには、チームは身売りを決意。

チームを引き受けることになったのは西武だった。
球界一の貧乏球団から、有数の裕福な球団へ

博多から所沢への移籍はあったものの、
多くの選手たちにとっては、望むべき身売りだった。

しかし、当時「16歳の練習生」にとっては、
それは運命の激変のプロローグでもあった。


福岡の定時制高校に通いながら練習を続けていた
2人の練習生は、埼玉の学校に転校し、
新生・西武で練習を続けることになった。

球団からは「高校卒業までは面倒をみる」と言われていた。
けれども、その後の保証は、何もなかった。

正式契約を結んでいないから、2軍の試合にも出られなかった。
もっぱら、非公式の練習試合や紅白戦に出場しながら、
日々の練習に励んでいた。
少しずつ、少しずつ結果が伴いつつある実感があった。

しかし、新生チームは新しい人材を欲した。
幸いにして、選手獲得資金は潤沢にあった。
高校、大学、社会人の有望選手が続々入団。

少しずつ、「練習生」の居場所はなくなっていく。
そして、プロ入り4年目のオフ、自由契約通告。
チームは廣岡達朗監督を招聘し、心機一転を決めていた。


1軍出場ゼロ。2軍出場もゼロ。
それがプロ4年間の全記録だ。



だからと言って、太田の人生がゼロの人生であるはずがない。

退団後、大学進学を決意し、見事に大学に入学。
卒業後に、西鉄関連会社に勤めることになったのも、
「ライオンズとの因縁」を感じさせる。

幸せな結婚をし、子どもにも恵まれた。
しかし、若くして、妻には先立たれることになった。
それでも、男手ひとつで子どもたちを育てた。
太田は言う「いろいろ辛いこともあったけど、幸せです」と。


昨日のエントリー記事を読んで、太田から連絡をもらった。

プロ野球界の素晴らしい方々との出逢いで
充実した第2の人生を送る事が出来ております。

15才の時の選択は間違ってはいませんでした!
今は、胸を張ってそう言えます


この文面を読んで、何とも言えない気持ちになった。



太田浩喜についての詳細は、7月10日発売の『野球小僧』
連載「太平洋&クラウンライターライオンズの姿を追って」、
この第5回に掲載するつもり。もしよかったら、ご覧ください。

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※左が太田、右が同じく練習生の吉田大介








shozf5 at 11:26│ 取材・インタビュー…… 
PROFILE
SHOICHI HASEGAWA 
1970年5月13日・東京生まれ。
ノンフィクション・ライター
日々、旅をして、人に出会い、
話を聞き、それを文章にする。
そんな日々の雑感です。
長文になると思います。

ちなみに、上の写真は、
モハメド・アリ@北朝鮮です!
(07年3月1日付参照のこと・笑)
shozf5@gmail.com


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